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■引用原文(日本語訳)
「私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」彼らは無知に迷わされてこのように言う。
(『バガヴァッド・ギーター』第16章 第15節)
■逐語訳(一文ずつ)
- 「私は富を持ち、高貴な家に生まれた者だ」
- 「私に匹敵できる者などいない」
- 「私は祭祀を行う(儀式を執り行う)」
- 「私は布施を施す」
- 「私は大いに楽しもう」
- 彼らはこのように語るが、それは**無知(アヴィジャーナーナ)**に迷っているがゆえである。
■用語解説
- 富み(ダルマ)・高貴な生れ(アビジャナ):社会的地位や家柄に基づく虚栄心。
- 誰が私に匹敵するか(カ・アヌ・マヤー・サマハ):優越感と自己絶対視の表現。
- 祭祀(ヤッニャ)、布施(ダーナ):本来は徳行であるが、この文脈では「自己顕示の手段」としての歪んだ実践。
- 無知に迷う(アヴィジャーナーナ・モーヒター):真理を知らず、誤った価値観に囚われた状態。
■全体の現代語訳(まとめ)
阿修羅的な人々は、「自分は富み、高貴な家柄に生まれ、他の者には到底かなわない」と思い込む。そして、祭祀や布施といった本来は清らかな行いですら、自分の誇示のために行おうとする。こうした振る舞いは、無知ゆえに生じる錯覚であるとクリシュナは語る。
■解釈と現代的意義
この節は、「自己中心的な善行」の危険性を描いている。現代においても、寄付・社会貢献・ボランティアといった行為が、「称賛されたい」「優越感を得たい」という動機から行われることがある。ギーターは、たとえ行動が“善”であっても、動機が“無知と傲慢”に基づけば、それは徳ではなく堕落であると教えている。
■ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 教訓と対応策 |
---|---|
CSR・SDGsの内実 | 社会貢献を「ブランディング」や「アピール」のために使うと、信頼ではなく偽善として見られる。 |
リーダーの自己陶酔 | 「自分がやってやった」「自分にかなう者はいない」という発言は、周囲の反感を招き、孤立につながる。 |
企業文化の在り方 | 貢献や功績が「誰のために」「なぜ行うのか」が不明確だと、組織は競争と虚栄の場になる。 |
動機の純粋性 | 善行も、目的が「誠実さ」「感謝」「共存共栄」でなければ、結果として社会的信用を失うリスクがある。 |
■心得まとめ
「善行の仮面をかぶった虚栄は、最も危険な堕落である」
布施や儀式も、「私がどれほど立派かを示す手段」となった瞬間に、徳ではなく傲慢になる。
ギーターは語る――誇りと虚栄の動機で行われる善は、魂を救わず、むしろ縛る。
私たちは常に問うべきである――「それは誰のためか、何のためか」。
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