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真の孝とは、形よりも「心の細やかさ」にあらわれる

孟子は、曾子の深い孝心を称えつつ、“敬う”とは何か、“想う”とはどういうことかを具体的に示している。
この章では、曾子が父・曾晳(そうせき)の嗜好品である「羊棗(ようそう)」を、父の死後には食べることができなかったという逸話が語られる。

これに対し、弟子の公孫丑(こうそんちゅう)が問う:

「膾炙(なますとあぶり肉)と羊棗、どちらが美味しいのですか」

孟子の答えは:

「膾炙のほうが美味しいだろう」

さらに公孫丑が問う:

「では、曾晳も膾炙は食べたはず。それなのに、なぜ曾子は膾炙は食べるのに羊棗は食べなかったのですか」

孟子は明快に答える:

「膾炙は皆が好む一般的な食べ物。羊棗は、父・曾晳だけが特別に好んでいたものだからである」

孟子はこの違いを、古来の**“諱名(いめい)”=故人の名を口にしないという習わし**にたとえる。

  • 姓(せい)を諱まないのは、それが一族に共通するものであり一般的だから
  • 名(な)を諱むのは、それがその人だけの固有のものであり、特別だから

つまり曾子にとって**羊棗とは、亡き父を象徴する「かけがえのない個別の記憶」**であり、
それを自らの口にすることができなかったのは、物を通して父を思い、敬意を表した心の発露だったのである。


引用(ふりがな付き)

「曾晳(そうせき)羊棗(ようそう)を嗜(たしな)む。而(しか)して曾子(そうし)羊棗を食(く)うに忍(しの)びず。
公孫丑(こうそんちゅう)問(と)うて曰(いわ)く、膾炙(かいしゃ)と羊棗と孰(いず)れか美(び)き。孟子(もうし)曰(いわ)く、膾炙なるかな。
公孫丑曰く、然(しか)らば則(すなわ)ち曾子は何為(なんす)れぞ膾炙を食いて、羊棗を食わざる。
曰く、膾炙は同(とも)にする所なるも、羊棗は独(ひと)りする所なればなり。名(な)を諱(い)みて姓(せい)を諱まざるは、姓は同にする所なるも、名は独りする所なればなり」


注釈

  • 曾晳(そうせき)…曾子の父。『孝経』でも曾子の孝行はしばしば引かれる。
  • 羊棗(ようそう)…ナツメまたは柿の一種。曾晳だけが特に好んだもの。
  • 膾炙(かいしゃ)…なますとあぶり肉。誰もが好むご馳走。
  • 諱名(いめい)…亡くなった人の名前を口にすることを避ける習慣。

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