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小義に優れても、大義を失えば本末転倒である

孟子は、斉の陳仲子が廉潔な人物として知られ、「たとえ不義によって斉の国を与えられても決して受けないだろう」と世間の人々から信じられていることに対して、厳しく指摘した。

確かに、それは義を貫く立派な行動に見える。しかし孟子は、それを「簞食(たんし)・豆羹(とうこう)を義のために捨てる」程度の“小さな義”であると断じる。つまり、わずかな食べ物を正義のために拒むという些細な義にすぎない、と言うのだ。

それに比べて、人としての基本である「親戚・君臣・上下」といった人倫の秩序をないがしろにすることは、はるかに大きな不義である。孟子は、「小義を守ったからといって、大義ある人物と信じてよいのか?」と問いかけている。

「孟子曰(もうし)く、仲子は、不義にして之に斉の国を与うるも、受けず。人皆之を信ず。是れ簞食・豆羹を舎つるの義なり。人は親戚・君臣・上下を亡するより大なるは莫し。其の小なる者を以て、其の大なる者を信ぜば、奚(なん)ぞ可ならんや」

「陳仲子は、たとえ不義によって斉の国を与えられても受けないとされ、それを多くの人が信じている。しかし、それはほんのわずかな食べ物を拒むのと同じ、小さな義に過ぎない。人として最も大きな不義は、親戚・君臣・上下という基本的な人倫の秩序を破壊することだ。小義をもってその人に大義があると信じるのは、誤りである」

孟子は、目に見える些細な「義」よりも、人間関係や社会秩序に関わる「大義」を重んじるべきだと説いている。表面的な潔癖だけでは、真の正義は語れない。

※注:

  • 「簞食・豆羹」…粗末な食事。ここでは象徴的に「小さな義」の例として使われる。
  • 「人倫」…人と人との間にある基本的な関係。親子、主従、上下など。
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