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親を大事に思う心

親を責める言葉にこそ、深い愛があることもある

孟子の弟子・公孫丑(こうそんちゅう)は問うた。
「斉の高子(こうし)は、『詩経』の《小弁(しょうべん)》という詩は、小人(しょうじん)の作だと言っています。親を怨んでいるからだと」

孟子はこれに対して、明快にこう返す。
「高老人(高叟)はなんと頑なで狭い詩の見方をするのか」

孟子はたとえを出す。
「ある人に向かって、見知らぬ越人(えつひと)が弓を引いたなら、その人は笑顔で止めるだろう。だが、それが自分の兄だったら、涙を流して止める。それは、兄に罪を犯してほしくない、近しい者だからこそ深く止めたいのだ」

小弁の詩も同じだという。
親に対する激しい怨みの言葉は、親の過ちを心底悲しみ、どうにか正したいという「深い親しみの表れ」なのだ。
その心には、「仁」がある。だからこそ孟子は、「小弁を非とするのは道理に合わない」とする。

さらに公孫丑が「では、《凱風(がいふう)》はなぜ親を怨んでいないのか」と問うと、孟子はこう返す。

「凱風の詩では、親の過ちは小さい。小さな過ちを怨むのは、事を荒立てること。
逆に、小弁のように親の過ちが大きいのに、怨まないのは親を軽んじることになる。
いずれも不孝だ。大事なのは、親を本当に思っているかどうかだ」

そして孔子の言葉を引用して結ぶ。
「舜(しゅん)は最高の孝行者である。五十歳になっても親を慕っていた」


原文と読み下し

公孫丑問うて曰く、高子曰く、小弁は小人の詩なり、と。孟子曰く、何を以て之を言うか。曰く、怨みたればなり、と。
曰く、固なるかな、高叟の詩を為むるや。
此に人有り。越人、弓を関きて之を射んとせば、則ち己談笑して之を道わん。他無し、之を疏んずればなり。
其の兄、弓を関きて之を射んとせば、則ち己、涕泣を垂れて之を道わん。他無し、之を戚めばなり。
小弁の怨めるは、親を親しめばなり。親を親しむは仁なり。固なるかな、高叟の詩を為むるや。
曰く、凱風は何を以て怨みざる。曰く、凱風は親の過ち小なる者なり。小弁は親の過ち大なる者なり。
親の過ち大にして怨みざるは、是れ愈疏んずるなり。親の過ち小にして怨むるは、是れ磯すべからざるなり。
愈疏んずるは不孝なり。磯すべからざるも、亦不孝なり。
孔子曰く、舜は其れ至孝なり。五十にして慕う。


※注:

  • 小弁(しょうべん):『詩経』の一篇。親への強い怨みの表現がある。
  • 凱風(がいふう):『詩経』の邶風にある篇で、母をいたわる優しい詩。
  • 越人(えつひと):他国の他人。距離感の象徴。
  • 親しむ・疎む:ここでは物理的距離ではなく、心の距離を表す。
  • 仁(じん):人間愛。孟子における最高の徳目。
  • 至孝(しこう):究極の孝行。舜がその代表。
目次

『孟子』公孫丑章句上より

1. 原文

公孫丑問曰、高子曰、小弁小人之詩也。孟子曰、何以言之。曰、怨。曰、固哉、高叟之爲詩也。有人於此、越人關弓而射之、則己談笑而道之、無他、疏之也。其兄關弓而射之、則己垂泣涕而道之、無他、戚之也。小弁之怨、親親也。親親、仁也。固矣夫、高叟之爲詩也。曰、凱風何以不怨。曰、凱風、親之過小者也。小弁、親之過大者也。親之過大而不怨、是愈疏也。親之過小而怨、是不可磯也。愈疏、不孝也。不可磯、亦不孝也。孔子曰、舜其至孝矣、五十而慕。


2. 書き下し文

公孫丑(こうそんちゅう)問いて曰く、
「高子(こうし)曰く、『小弁(しょうべん)は小人の詩なり』と。」
孟子(もうし)曰く、
「何を以て之を言うか。」
曰く、
「怨(うら)みたるが故なり。」
曰く、
「固(もと)より然(しか)るかな、高叟(こうそう)の詩を為すや。

ここに人有り。越人(えつびと)が弓を関(ひ)いてこれを射(い)んとすれば、則ち己(おのれ)談笑してこれを語る。

他(た)に無し、これを疏(うと)しとするが故なり。

その兄、弓を関いてこれを射んとすれば、則ち己、涕泣(ていきゅう)を垂れてこれを語る。

他に無し、これを戚(せき)しとするが故なり。

小弁の怨むるは、親を親しむが故なり。親を親しむは仁なり。

固より然るかな、高叟の詩を為すや。

曰く、『凱風(がいふう)何を以て怨まざるや。』

曰く、凱風は親の過ち小なる者なり。小弁は親の過ち大なる者なり。

親の過ち大にして怨まずんば、是れ愈(いよいよ)疏しとするなり。

親の過ち小にして怨むるは、是れ磯(そし)すべからざるなり。

愈疏なるは、不孝なり。磯すべからざるも、亦た不孝なり。

孔子曰く、舜は其れ至孝(しこう)なり。五十にして慕(した)う。」


3. 現代語訳(逐語/一文ずつ)

  • 公孫丑が孟子に尋ねた:「高子は『小弁』は小人の詩だと言っていました。」
     → 『小弁』という詩が下劣な人間(小人)の感情を表したものだという意見を紹介する。
  • 孟子が尋ねる:「なぜそう言うのか?」
     → 理由を問う。
  • 公孫丑が答える:「怨みを表しているからです。」
     → 詩に親を非難するような表現があると理解されている。
  • 孟子:「それは違う。高叟(高子)の詩の理解は根本的に誤っている。」
     → 高子の判断を否定する。
  • 「たとえば、見知らぬ越人が弓を引いて自分を狙っても、自分は笑って受け流すだろう。それは他人だからだ。」
     → 無関心の例。
  • 「しかし、兄が弓を引いたら、涙を流して止める。それは兄だから、親しいからだ。」
     → 親しさと感情の深さの関係。
  • 「『小弁』の怨みは、親しさゆえに生じるものだ。親しさは“仁”の表れである。」
     → 怨み=無礼ではなく、愛情や親密さの裏返しと解釈する。
  • 「一方、『凱風』では怨んでいないのは、親の過ちが小さいからだ。」
     → 親の過ちの程度の違いにより感情表現も変わる。
  • 「大きな過ちに対して怨まずにいれば、それは冷淡=親しみが薄い証拠であり“不孝”である。」
  • 「小さな過ちで怨むのも、逆に激しすぎて“不孝”である。」
  • 「孔子も『舜は最も孝行で、五十歳になっても親を慕った』と言っている。」

4. 用語解説

  • 小弁(しょうべん):『詩経』の一篇。兄弟・親族の不和を嘆く詩で「怨み」の情が込められている。
  • 小人:心が狭く、利己的な人物のこと。
  • 高子(高叟):高位の儒学者。ここでは小弁の詩に否定的。
  • 凱風(がいふう):これも『詩経』の一篇で、母親への慈愛を詠った詩。
  • 疏(そ)・戚(せき):疏は疎遠、戚は親密。
  • 磯(そし)すべからず:非難してはならないという意味。
  • 舜(しゅん):古代中国の聖王。孝行の象徴。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

公孫丑が孟子に、「『小弁』という詩は、小人のような者が作ったものだと高子が言っていた」と伝えると、孟子は「それは誤解だ」と否定した。

孟子は、怨みの感情が出るのは、相手との関係が近いからであり、それはむしろ“親しさ=仁”の証だと論じる。

見知らぬ人に危害を加えられても平然としているが、親しい人からであれば悲しむのが自然。
『小弁』の詩は親しさゆえに怨みを表した詩であり、それは親を愛している証拠だという。

逆に、親の大きな過ちを見ても何も言わないのは親への愛が薄いことであり、
小さな過ちで激しく怨むのも度が過ぎており、どちらも「不孝」とされる。

孔子も「舜は五十歳になっても親を慕った」と言っており、真の孝とは深い感情を持ち続けることである。


6. 解釈と現代的意義

この章句は、感情の発露と倫理のバランスを論じています。

  • 怨みの表現は一概に悪ではなく、親しさや情の深さの証拠である
  • 親しければこそ、時に悲しみ、時に怒りの感情も現れる。
  • しかし、その感情も適切な分別があってこそ「仁」や「孝」として評価される。

つまり、「無感情」や「過剰な攻撃性」のどちらも不健全であり、感情表現の背景と節度を見極めるべきだという教訓です。


7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)

❖「叱責=悪ではない。愛情ある苦言は“仁”である」

部下や同僚へのフィードバックで怒りや失望を見せることがある。それが親しみや期待に基づくものなら、むしろ信頼の証である。

❖「無関心こそ、最大の“不孝”」

上司・同僚・部下に対し、過ちがあっても何も言わない、何も感じない――それは“関係が薄い証拠”。
無関心なチームは崩壊する。

❖「感情の節度が人間関係をつくる」

感情を出さないのではなく、“相手を思っての感情”を正しく表現することが、信頼と人間的リーダーシップを育む。


8. ビジネス用心得タイトル:

「情があるから叱る──愛情のない沈黙は不信を招く」


この章句は、感情・倫理・人間関係の深層に迫る重要な示唆を含んでおり、マネジメント・人材育成・信頼関係構築など多くの場面に応用できます。


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