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自分で実践していく熱意を持て

道は遠くにあるのではない。歩もうとする意志があるかどうかだ

孟子は言う。
「ゆっくり歩いて目上の人の後に従う――これは『弟(てい)』、つまり敬意を持った正しいふるまいだ。逆に、さっさと歩いて先に出るのは『不弟』、礼を欠いたふるまいとされる」

これほど簡単なこと――「ゆっくり歩く」――は、誰にでもできる。
それでもやらないのは、「できない」のではなく、「やらない」からなのだ。
堯(ぎょう)や舜(しゅん)といった聖人の道とは、結局のところ「孝弟(こうてい)=親を敬い、年長者を慕うこと」に尽きる。

だから孟子は断言する。
「堯の服を着て、堯の言葉を語り、堯の行いを実践するなら、その人は堯である」
「逆に、桀(けつ)の服を着て、桀の言葉を語り、桀の行いをするならば、その人は桀である」

誰になれるかではなく、誰として生きるかがすべてなのだ。

これを聞いた曹交は感銘を受け、「鄒の君にお願いして宿舎を借り、先生に弟子入りしたい」と願い出る。
しかし孟子はそれを受け入れず、こう言う。

「人の道とは、大通りのようなもの。わかりにくいものではない。問題は、人がそれを求めないことなのだ」

つまり、外から教えを得ようとする前に、自ら歩む意思を持てということだ。


原文と読み下し

徐行後長者、之を弟と謂う。疾行先長者、之を不弟と謂う。夫れ徐行は、豈(あ)に人の能(あた)わざる所ならんや。為(な)さざる所なり。
堯・舜の道は、孝弟のみ。
子、堯の服を服し、堯の言を誦(しょう)し、堯の行いを行わば、是れ堯のみ。
子、桀の服を服し、桀の言を誦し、桀の行いを行わば、是れ桀のみ。
曰く、交、鄒君に見ゆることを得て、以て館を仮るべし。願わくは留まって業を門に受けん。
曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。人求めざるを病(うれ)うるのみ。子、帰りて之を求めば、余師有らん。


※注:

  • 弟(てい):兄や目上の人を敬う礼。儒教における基本的な徳目のひとつ。
  • 疾行(しっこう):速足で歩く。相手への配慮を欠く行動。
  • 孝弟(こうてい):孝(親への敬愛)と弟(年長者への礼節)。孟子が重視する道徳の基礎。
  • 堯・舜(ぎょう・しゅん):理想の聖王。
  • 桀(けつ):暴君の代表例。堯・舜とは対照的な存在。
  • 余師(よし):「他にも多くの師はいる」=自ら求める姿勢があれば、師は自然に現れるという意味。

1. 原文

徐行後長者、謂之弟、疾行先長者、謂之不弟。夫徐行者、豈人不能哉、不為也。堯舜之道、孝弟而已矣。子服堯之服、誦堯之言、行堯之行、是堯而已矣。子服桀之服、誦桀之言、行桀之行、是桀而已矣。
曰、交得見於鄒君、可以假館、願留而受業於門。曰、夫道若大路然、豈難知哉、人病不求耳。子歸而求之、則餘師。


2. 書き下し文

徐(おもむ)ろに行(ゆ)きて長者(ちょうじゃ)に後(おく)る、之(これ)を弟(てい)と謂(い)う。
疾(と)く行きて長者に先(さき)だつ、之を不弟(ふてい)と謂う。

夫(そ)れ徐行(じょこう)は、豈(あ)に人の能(あた)わざる所ならんや。為(な)さざる所のみ。

堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道は、孝弟(こうてい)のみ。

子(し)、堯の服(ふく)を服(き)し、堯の言(ことば)を誦(しょう)し、堯の行(おこな)いを行(おこな)えば、是(これ)堯のみ。
子、桀(けつ)の服を服し、桀の言を誦し、桀の行いを行えば、是れ桀のみ。

曰(い)わく、交(こう)、鄒君(すうくん)に見(まみ)ゆることを得て、以(もっ)て館(やど)を仮(か)るべし。
願(ねが)わくは留(とど)まりて、業(ぎょう)を門(もん)に受(う)けん。

曰く、夫(そ)れ道は大路(たいろ)のごとく然(しか)り。豈(あ)に知(し)り難(がた)からんや。人、求(もと)めざるを病(うれ)うるのみ。子、帰(かえ)りて之を求むれば、余(あま)る師(し)あらん。


3. 現代語訳(逐語/一文ずつ)

  • 「長者の後ろをゆっくり歩く、それを“弟(おとなしい・礼儀正しい)”という。
     → 年上の人の後ろについて歩くことが、礼をわきまえた行為とされる。
  • 早足で先に立つのは“不弟(無礼)”である。
     → 逆に、自分勝手に先に行くのは無礼にあたる。
  • ゆっくり歩くことは、人にできないことではない。ただ“やらない”だけだ。
     → 礼儀は才能ではなく、意思と実践によって示される。
  • 堯・舜の道とは、要するに“孝”と“弟”だけである。
     → 親を敬い、兄や年長者を敬う、これが聖人の基本。
  • あなたが堯の衣を着て、堯の言葉を語り、堯の行いを行えば、それは堯である。
     → 行動こそが人を定義する。模倣ではなく実践が本質。
  • 逆に、桀(暴君)の言葉と行いを真似れば、それは桀である。
     → 行動が悪ければ、その人は悪人としての本質を持つ。
  • 曹交が「鄒君に会えたので宿舎を借りることができた。学びのためにここに留まりたい」と言う。
     → 学びを志して滞在を希望した。
  • 孟子は言う:「道とは大きな道のようなもので、知ることが難しいものではない。人が求めないことこそが問題なのだ。あなたが帰ってそれを求めるなら、教えてくれる先生はいくらでもいる。」
     → 本当に学ぶ気があるなら、学べる機会は必ずある。

4. 用語解説

  • 徐行(じょこう):ゆっくりとした歩き方。礼儀・慎みの象徴。
  • 弟(てい):兄弟の「弟」ではなく、「年長者への敬意」を意味する徳目。
  • 不弟(ふてい):非礼・不遜な態度。
  • 堯・舜(ぎょう・しゅん):理想の聖王。
  • 桀(けつ):暴君の代名詞。殷の暴君紂王と並ぶ悪しき例。
  • 鄒君(すうくん):鄒国の国主。曹交が会った人物。
  • 館を仮る(かんをかる):宿泊所を提供してもらうこと。
  • 業を門に受く:師匠の門下として学ぶこと。
  • 大路(たいろ):誰でも通れる広い道。道(タオ)の比喩。
  • 病(うれ)うる:嘆く、問題にする。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

「年長者の後ろを歩くことが礼儀であり、先に歩くのは無礼だ。
だが、それはできないのではなく、やろうとしないだけのことだ。

堯や舜のような聖人の道とは、要するに“孝(親への敬)”と“弟(年長者への敬)”だけだ。
あなたが堯と同じように語り、行動すれば、それは堯と同じこと。逆に、悪人・桀と同じ行いをすれば、それは桀である。

学びたいという曹交の意志に対して、孟子はこう言う。
『道は、誰にでも開かれた大道のようなものだ。知らないのは、難しいからではなく、求めないからだ。
本気で求めれば、教えてくれる師は必ず見つかる』」


6. 解釈と現代的意義

この章句は、孟子の核心的な教えを表しています。

  • 道徳や礼儀は、生まれつきの資質ではなく「意志と実践」によって身につけられるものである
  • 堯にも桀にもなれるのは、行いによるものであり、結果的に“人はその行いにより定義される”
  • 学ぶ意思さえあれば、道はすでに開かれている

つまり、問題は「能力」ではなく「意志」。できないのではなく「しない」、知らないのではなく「求めない」ことこそが、本質的な問題だと説かれています。


7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)

❖ 「マインドセットが行動を決定する」

リーダーシップ・礼儀・信頼のある振る舞いは、才能ではなく「選択と意志」によって形作られる。
“弟”とは、他者への敬意と配慮。これは誰でも今日からできる行為である。

❖ 「人は行動によって定義される」

“堯になりたい”と考えているだけでは意味がない。堯のように考え、話し、行動すれば、それはすでに堯である。
人材評価でも、意図や理想ではなく“実際の行動”がすべてを語る。

❖ 「学びは“求める心”から始まる」

知識・スキル・成長――それらは特別な環境や才能に依存しない。
「道は誰にでも開かれている」。学びたいと求める人にだけ、師が現れる。


8. ビジネス用心得タイトル:

「行動が人をつくる──できないのではなく、“しない”だけ」


この章句は「成長」「学び」「リーダーシップ」「道徳行動」といった多くのビジネステーマに応用可能です。

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