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自分の育て方を知らずして、どうして生きられるか――“身を養う”という根本課題

孟子はこの章で、「自分の身体と心をどう育てるか(養うか)」という最も根本的な問いを投げかけています。
私たちは植物でさえ育て方を調べて実践しようとするのに、**自分という存在の育て方には驚くほど無関心である――これはおかしくないか?**という厳しい批判と、目覚めへの促しが込められています。


木の世話は知っていても、自分の世話は知らない

孟子は言います:

「両手や片手で抱えるほどの桐(きり)や梓(あずさ)といった木でさえ、
これを育てようと思えば、どう育てればよいかを人は知っている

これは、身近な自然への関心や手間に対する例です。
人は木を植えれば、水をやり、日当たりを調整し、風や虫から守ろうとします。
つまり、育てる対象に対して“世話の知恵”を使おうとするのです。

しかし一方で孟子は指摘します:

自分自身については、どう養えばよいかを知らない

つまり、

  • 身体的にどう健康に生きるべきか
  • 精神的にどう気を養い、徳を育てるべきか
  • 道徳的にどう心を正すか

――こういった**“自己修養”の方法については驚くほど無知で、無頓着である**というのです。


自分を大事に思うなら、本来もっと真剣であるはず

孟子は問いかけます:

「どうして自分の身を愛することが、木を愛することに及ばないのか?」

ここにあるのは、価値の取り違えに対する痛烈な批判です。

  • 桐や梓は道具や家具に使うための木材にすぎない
  • 対して「身=自分」は、生きる全体であり、善悪を判断し、義を行う中心

それにもかかわらず、自分の心身の育て方を学ばないというのは、

「愛していないからではない、ただ思わなすぎるのだ(=意識の浅さが甚だしい)」


出典原文(ふりがな付き)

孟子(もうし)曰(いわ)く、拱把(きょうは)の桐梓(とうし)も、
人、苟(いや)しくも之(これ)を生(しょう)ぜんと欲せば、皆(みな)之を養(やしな)う所以(ゆえん)の者を知る。

身に至りては、之を養う所以の者を知らず。
豈(あに)身を愛すること桐梓に若(し)かざらんや。

思(おも)わざるの甚(はなは)だしきなり。


注釈

  • 拱把(きょうは):両手または片手で抱える程度の太さ。若木の象徴。
  • 桐梓(とうし):家具や楽器などに用いられる高級木材。成長すれば役立つが、本質的価値は人間には及ばない。
  • 養う所以の者:育てるための方法・知識・工夫。
  • 甚(はなは)だしきなり:あまりにもひどい、程度が甚大であるという非難。

パーマリンク候補(英語スラッグ)

learn-to-cultivate-yourself
「自分を育てる方法を学べ」という孟子の主張を明快に表現。

その他の候補:

  • tend-to-yourself-like-a-tree(木のように自分を世話せよ)
  • how-do-you-nurture-yourself(自分をどう育てているか?)
  • loving-yourself-is-not-enough(自分を大事にするには、それだけでは足りない)

この章は、孟子が語る自己修養の根本姿勢を、非常にシンプルな比喩で伝えてくれる名句です。
私たちは外の物にばかり気を取られがちですが、「自分をどう育てていくか」は、人生における最重要テーマであり、学問や修行の出発点でもあります。

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