孟子はこの章で、人間の本性は誰もが同じであり、聖人と凡人の違いは、先天的な能力ではなく、後天的な環境と努力の差であると明言します。
これは、性善説に基づく平等思想とも言え、誰もが善くなる可能性を持っていることを力強く主張する章です。
凶年に悪人が増えるのは、本性の差ではない
孟子は言います:
「豊作の年には若者に善い行いをする者が多く、凶作の年には乱暴な者が多くなる。
しかし、それは天が与える本性(=才)に違いがあるからではない。
欲望に引きずられ、心が陥没してしまう**“環境と状況”のせいである」。**
つまり、本性が同じでも、物質的な困窮が人を不善に導くことがあるのだということです。
大麦のたとえ:種は同じでも、育ちは異なる
孟子は次に、大麦の生育を例に挙げます:
- 種まきの土地も同じ
- 播く時期も同じ
- 発芽もし、夏至にはすべて成熟する
それでも収穫に差が出るのは、以下のような外的要因が違うからです:
- 土壌が肥えているか痩せているか(自然条件)
- 雨露の恵みの多寡(天候)
- 農夫の手入れの丁寧さ(人為的努力)
「同じ種類のものは、概して似たような結果になる。
どうして人間だけが、本性が違うと疑うことができようか?」
これはつまり、「聖人と凡人の差も、種ではなく育ちにある」というメッセージです。
龍子の靴のたとえ:足が同じだから靴も似る
孟子はさらに、古の賢人・龍子の言葉を引用します:
「たとえ足の大きさを知らずに靴を作ったとしても、それが蕢(もっこ=土を運ぶ籠)のように巨大なものにはならない。
靴の形が似通っているのは、人間の足が皆似ているからだ」
これは、人間の本性も同じである証拠としてのたとえであり、
聖人も我々も、道徳的可能性において本質的には等しい存在であることを示しています。
出典原文(ふりがな付き)
孟子(もうし)曰(いわ)く、富歳(ふさい)には子弟(してい)頼(たのも)しき者多く、凶歳(きょうさい)には子弟暴(あら)ぶる者多し。
天の才(さい)を降(くだ)すこと、爾(しか)く異(こと)なるに非(あら)ざるなり。
其(そ)の心を陥溺(かんでき)する所以(ゆえん)の者、然(しか)るなり。
今夫(それ)麰麦(むぎ)、播種(はしゅ)して之(これ)を耰(う)す。
其の地(ち)同じく、之を樹(う)うる時(とき)亦(また)同じ。
浡然(ぼつぜん)として生(しょう)じ、日至(にっし)の時に至りて皆(みな)熟(じゅく)す。
異なること有りと雖(いえど)も、則(すなわ)ち地に肥磽(ひこう)有り、雨露(うろ)の養い、人事(じんじ)の斉(ひと)しからざるに因るなり。
故(ゆえ)に凡(およ)そ同類(どうるい)する者は、挙(こぞ)って相(あい)似(に)たり。
何ぞ独(ひと)り人に至(いた)りて之を疑(うたが)わん。
聖人(せいじん)も我(われ)と類を同(おな)じうする者なり。
故に龍子(りゅうし)曰(いわ)く、足(あし)を知らずして屨(くつ)を為(つく)るも、我(われ)其(そ)の蕢(もっこ)たらざるを知る、と。
屨の相似(そうじ)たるは、天下の足同じければなり。
注釈
- 子弟:若者。弟子の意も含まれる。
- 播種・耰す:種をまいて土をかぶせる。
- 浡然(ぼつぜん):芽がむくむくと生えてくる様子。
- 日至:夏至の時期。穀物が熟す時期の目安。
- 肥磽(ひこう):肥えた土地と痩せた土地。
- 龍子:古の賢者とされる人物。『文公』などにも登場。
- 蕢(もっこ):土や石を運ぶ道具。大きさの例えに用いる。
パーマリンク候補(英語スラッグ)
saints-are-like-us
「聖人も我らと同じ人間である」という核心をそのまま表現。
その他の候補:
- same-nature-same-seed(本性は同じ、種も同じ)
- virtue-needs-nurture(徳は育てるもの)
- from-good-seed-to-great-fruit(よき種から偉大な実りへ)
この章は、性善説に立脚した「教育と環境」の重要性を説く孟子の社会哲学の真骨頂です。
「聖人だから善い」のではなく、「善い芽を育てたから聖人になった」のだという視点は、
現代においても教育・倫理・人間理解に強い示唆を与え続けています。
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