◆ 背景と主張
万章は「今の諸侯は民を追いはぎのように搾取している。そんな者からの贈り物を受け取るとは君子のやることか」と問う。
これに対して孟子は、**「すべてを一律に盗人扱いするのは道理を極端に突き詰めすぎており、実際的ではない」**と説く。
孟子は、現実政治における”不義”にも段階と過程があり、全てを一色に塗って断罪すべきではないと論じる。
原文と読み下し
曰く、今の諸侯、これを民に取るや禦(ごと)し。苟(いやしく)もその礼際(れいさい)を善くせば、君子もこれを受くとは。敢えて問う、何の説(せつ)ぞや。
孟子曰く、子以て為らく、もし王者の興ることあらば、将に今の諸侯を比(なら)べてこれを誅せんか。それともこれを教えて、改めざるをもって後にこれを誅せんか。
夫(そ)れその有に非ざるをもってこれを取るは盗なり、というは、類を充たして義の尽(きわ)まるに至るなり。
孔子、魯に仕うるや、魯人は猟較(りょうきょう)す。孔子もまた猟較せり。
猟較すらなお可なり。いわんやその賜を受くるをや。
解説と背景
◆ 不義の一般論と現実の距離
孟子がここで批判しているのは、「盗人理論の濫用」である。
「不義な収奪=盗人」という判断基準は道徳的には一貫しているが、孟子はそれをそのまま現実の政治に当てはめると、一人の君主も残らないことになると示唆する。
孟子の問いかけ:
- 王者(理想の統治者)が現れたら、すべての諸侯を並べて誅するのか?
- それとも、教育して改めさせてから、それでも従わない者のみを誅するのか?
→ 孟子は後者が道理だと考える。
◆ 「充類至義之盡」:理屈を極限まで推す危うさ
この言葉の意は、類比を極端に推し進めて道理を過度に適用すること。
「不義=盗人」→「すべての諸侯=盗人」→「贈与された物=盗品」→「それを受け取る者=盗人の共犯」
という思考の連鎖を孟子は形式主義的で現実から乖離しているとみなしている。
◆ 孔子の実例:猟較に参加した理由
- 孔子は、魯に仕えていたとき、**魯の悪しき風習(猟較)**に参加している。
- 猟較とは、民の獲物を没収して祖先の祭祀に使う形式。
- これすら孔子が「可なり(受け入れ可能)」としたならば、贈り物の受領はなおさら許されるべきだという孟子の立論。
教訓と現代への示唆
◆ 不義の一律断罪は危険
- 世の中に完全な清廉潔白のみを求めれば、誰も関与できなくなる。
- 道徳的潔癖主義を現実に適用すると、政治的、社会的関与を拒絶せざるを得ない。
◆ 不義にも「改善可能なもの」と「誅すべきもの」がある
- 改める可能性がある不義には、交際と対話の余地がある。
- 無差別に断罪せず、過程・動機・態度の変化に注目すべき。
構造的なまとめ
種類 | 内容 | 許容されるか? |
---|---|---|
明白な犯罪(追いはぎ等) | 康誥篇のように「誅して当然」 | ✕ 許されない |
構造的・習慣的な不義(例:諸侯の搾取) | 改める意志・礼儀があるなら対話の余地あり | ○ 条件つきで許容 |
軽度の慣習的な悪習(例:猟較) | 孔子も一時的に従った | ○ 許容されうる |
結語:「正義の適用には段階を見よ」
孟子のこの言葉は、理想と現実を橋渡しする倫理的な柔軟さを示す。
単なる妥協ではなく、「不義を改めるチャンスを与えることこそ、真の義である」とする。
この節の教訓は次のようにまとめられる:
「義」とは、ただ「正しいこと」ではなく、
**「正しさをもって人を導く在り方」**である。
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