孟子はこの章で、単に賢者を尊敬するだけでは足りないと説く。
君主であれば、その賢者を友として遇するだけでなく、登用し、位・職・禄を共にするべきなのだ。
これは「士のように尊ぶな、王者らしく遇せよ」という孟子の強い主張であり、
賢者を用いない「友交止まり」は、名君の条件を欠くという政治的批判にもつながっている。
原文と読み下し
惟(た)だ百乗(ひゃくじょう)の家のみ然(しか)りと為すに非ざるなり。
小国の君と雖(いえど)も、亦(また)之れ有り。費(ひ)の恵公曰く、
「吾れ子思(しし)に於いては、則ち之を師とす。
顔般(がんはん)に於いては、則ち之を友とす。
王順・長息は、則ち我に事うる者なり」と。大国の君であっても、亦た然り。晋の平公、亥唐(がいとう)に於いては、
「入れ」と云えば入る。「坐れ」と云えば坐す。「食え」と云えば食す。
粗末な飯や菜の汁でも、必ず飽きるまで食した。
敢えて飽かずにいることをしなかった。然れども、此(ここ)に終わるのみ。
- 与に天位を共にせず、
- 与に天職を治めず、
- 与に天禄を食(くら)わず。
これ、士人が賢者を尊ぶあり方であり、
王公(君主)の賢を尊ぶあり方には非ざるなり。
注釈と用語
- 百乗の家:軍車百台の保有が許された大夫の名家。孟献子の例などが該当。
- 費の恵公:小国「費」の君主。子思(孔子の孫)を師と仰ぐほど、儒学への理解があった人物。
- 子思:孔子の孫。孟子に大きな影響を与えた儒家思想家。
- 亥唐:晋の賢人。平公に仕えた人物。
- 天位・天職・天禄:それぞれ天命により与えられた「位階」「政治的責務」「俸禄」の意。
三段階の尊賢レベル
レベル | 行動内容 | 評価 |
---|---|---|
① 礼遇 | 食事・挨拶・訪問など。人格的尊敬を示す。 | ✅良いが、十分でない |
② 友交 | 賢者として尊重し、相談相手とする | ✅徳を重んじるが、形式的で終わる可能性あり |
③ 登用・共治 | 位・職・禄を共にし、政務を委ねる | ◎王者のあるべき姿 |
孟子は、**「王者ならば登用しなければ賢を尊んだことにならない」**と断じている。
現代的な視点からの意義
- 形式的な「リスペクト」や「称賛」だけでなく、役割や責任の委譲・共有が本当の評価であるという視点。
- 上司が部下を「有能だ」と褒めながら、実際には権限も任せないならば、それは真の評価ではない。
- 才能を本当に尊重するとは、その人に力を委ねることである。
パーマリンク(英語スラッグ)
true-respect-is-to-entrust
→「真に尊ぶとは、任せることである」
その他の案:
friendship-is-not-enough
(友情だけでは足りない)virtue-demands-empowerment
(徳は登用を求める)respect-through-shared-rule
(共治による尊重)
この章は、孟子のリーダー観と登用論が明確に現れている章です。
「賢者に食事をふるまうこと」と「賢者と政治を共にすること」は似て非なるものである――
この峻別ができてはじめて、君主としての器が試されると孟子は述べています。
原文
非惟百乘之家爲然也、雖小國之君、亦有之、費惠公曰、吾於子思則師之矣、吾於顏般則友之矣、王順・長息則事我者也、非惟小國之君爲然也、雖大國之君、亦有之、晉平公之於亥唐也、入云則入、坐云則坐、食云則食、雖疏食菜羹、未嘗不飽、蓋不敢不飽也、然止於此而已矣、弗與共天位也、弗與治天職也、弗與食天祿也、士之所以賢者也、非王公之所賢也。
書き下し文
百乗(ひゃくじょう)の家のみ然(しか)りと為(な)すに非(あら)ざるなり。
小国の君と雖(いえど)も、亦(また)これ有(あ)り。
費(ひ)の恵公(けいこう)曰(いわ)く、
「吾(われ)、子思(しし)に於(お)いては、則(すなわ)ち之(これ)を師(し)とす。
吾れ、顔般(がんぱん)に於いては、則ち之を友とす。
王順(おうじゅん)・長息(ちょうそく)は、則ち我(われ)に事(つか)うる者なり。」と。
小国の君のみ然りと為すに非ざるなり。
大国の君と雖も、亦これ有り。
晋の平公(へいこう)の亥唐(がいとう)に於(お)けるや、
「入れ」と云(い)えば則ち入り、「坐せ」と云えば則ち坐し、「食え」と云えば則ち食う。
疏食(そし)・菜羹(さいこう)と雖(いえど)も、未(いま)だ嘗(かつ)て飽(あ)かざることなし。
蓋(けだ)し敢(あ)えて飽かざることあらざるなり。
然(しか)れども此(ここ)に止(とど)まるのみ。
与(とも)に天位(てんい)を共(とも)にせず、
与に天職(てんしょく)を治(おさ)めず、
与に天禄(てんろく)を食(くら)わず。
士(し)の賢(けん)たる所以(ゆえん)は、王公の賢たる所以に非(あら)ざるなり。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- これは百乗の大貴族に限られたことではない。小国の君主であっても同様の例がある。
- 費の恵公はこう言った:
「私は子思に対しては師と仰ぎ、顔般とは友人として付き合い、王順・長息は私に仕える者である。」 - こうした態度は小国の君に限らず、大国の君にも見られる。
- 晋の平公が亥唐に対しては、「入れ」と言えば入り、「座れ」と言えば座り、「食え」と言えば食べた。
- たとえ粗末なご飯や野菜の汁物でも、平公は決して食べ残すことなく、必ず完食した。
- それは、遠慮して残したりするのが恐れ多いと考えていたからである。
- しかし、その関係はそこまでで終わる。
- 平公は亥唐に国政(天位)を共に担わせることはなかったし、国家の職務(天職)も共有させなかったし、国家の収入(天禄)も分け与えなかった。
- 真に賢いとは、王や公のように地位が高いからではなく、士としての徳を持っているからこそ賢いとされるのである。
用語解説
- 百乗の家:百台の戦車を保有する大貴族。非常に裕福な家柄。
- 費の恵公:小国の君主でありながら、徳を尊んだ人物の例として挙げられる。
- 子思・顔般:孔子の孫である子思、賢人顔子の一族である顔般。どちらも徳高き人物。
- 王順・長息:費恵公に仕える従者・家臣。
- 晋の平公:春秋時代の晋国君主。形式的礼儀には熱心だったが、徳に基づく政治参加は認めなかった。
- 疏食・菜羹:粗末な食事、野菜の汁物。
- 天位・天職・天禄:それぞれ、政治的地位、公務、国家からの収入=「公の仕事と報酬」。
- 士:儒家が理想とした知識人・人格者層。実力・道徳によって立つ者。
全体の現代語訳(まとめ)
孟子は、「真に賢い人物は地位によってではなく、その徳によって判断されるべきである」と語る。
費恵公のような小国の君主は、子思を師と仰ぎ、顔般と対等に交わり、自分に仕える家臣とは上下の関係を明確に分けていた。これは身分の高低ではなく、徳の有無によって人間関係を築く姿勢を示している。
晋の平公のような大国の君主でも、徳を持った亥唐に対して表面的には敬意を払っていたが、国政に参加させることはなかった。つまり、礼儀は尽くしても信頼・責任は分かち合っていなかったということである。
このように、士の賢さは王公の賢さとは異なり、地位ではなく人格と徳に基づくものである。
解釈と現代的意義
この章句は、**「徳を尊ぶことの本質」と「形式と実質の区別」**を明確に示しています。
- 真の賢者とは、出自や地位にかかわらず、徳によって評価されるべきという孟子の信念。
- 一方で、形式的な敬意(座れ・食え等)と、本当に責任や権限を委ねることの違いが重要であり、“表面的に尊重する”のと“共に担う”のは全く別であることを警告しています。
ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
- 「形式的なリスペクトと実質的な信頼を分けて考える」
→ 表面的に持ち上げられていても、実際の意思決定に関与させないならば、それは信頼ではない。 - 「地位や権威ではなく、徳と能力による評価」
→ 年齢や役職ではなく、人間性・能力・信念を持つ人を“真のキーパーソン”として扱うべき。 - 「役割と待遇を一致させる」
→ 相談には乗らせるが報酬は与えない、任せたふりをするが決裁権は与えない──そうした“責任なき敬意”は逆効果。 - 「形式的に丁寧でも、本質的に無関心では意味がない」
→ ホスピタリティや礼儀の裏に「本当にこの人を信頼しているか?」という問いが必要。
ビジネス用の心得タイトル
「徳に学び、信に任せよ──表敬で終わらず、共に担う覚悟を持て」
この章句は、「誰と共に働くか」「誰に任せるか」は、地位や関係ではなく、徳と能力で決めるべきであるという孟子の強い倫理観と人間観を示しています。
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