孟子は、伊尹(いいん)が料理人として湯王に取り入ったという俗説をきっぱりと否定する。
伊尹は、義(ぎ)にかなわない行動や、道(みち)に外れた行いを絶対にしなかった人物であり、天下を与えられようと、四千頭の馬を差し出されようと、動じなかった。
むしろ、一本の草であっても、正義に反するならば与えることも、受け取ることも拒んだ。
この徹底した潔さこそ、孟子が評価する「真の士(し)」のあり方である。
原文と読み下し
万章(ばんしょう)問(と)うて曰(いわ)く、人の言(い)えること有(あ)り。伊尹(いいん)は割烹(かっぽう)を以(もっ)て湯(とう)に要(もと)めたり、と。諸(これ)有りや。
孟子(もうし)曰く、否(いな)、然(しか)らず。伊尹は有莘(ゆうしん)の野に耕(たがや)して、堯舜(ぎょうしゅん)の道(みち)を楽しむ。
其の義(ぎ)に非(あら)ざるや、其の道に非ざるや、之(これ)を禄(ろく)するに天下を以(もっ)てするも、顧(かえり)みざるなり。
繫馬千駟(けいばせんし)も、視(み)ざるなり。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、一介(いっかい)も以て人に与えず。一介も以て諸(これ)を人に取らず。
解釈と要点
- 伊尹は決して自己利益のために仕官しようとはせず、仁義の道に則って生きた。
料理人として湯に取り入ったという話は、俗説に過ぎない。 - 天下を報酬に差し出されても受け取らず、「義」と「道」に反するならば、どんな権力・財産・人情にも決して妥協しない態度を貫いた。
- 一介(=一本の草)という極めて小さなものですら、義に反すれば与えもせず、受け取りもしなかったという徹底ぶり。
- 孟子は、こうした伊尹の姿勢を通して、「真の士とは何か」を説いている。
それは、機会に媚びず、義によって立つ人である。
注釈
- 割烹(かっぽう):料理。料理人として仕えること。現代日本語の「割烹」とはやや意味が異なる。
- 要(もと)む:取り入る、仕官しようとすること。
- 有莘(ゆうしん):伊尹が住んでいた土地。隠棲していた場所とされる。
- 堯舜の道(ぎょうしゅんのみち):仁義に基づく聖人の道。儒教の理想とされる政治・道徳のあり方。
- 繫馬千駟(けいばせんし):千台の馬車に繋がれた馬。莫大な贈り物のたとえ。
- 一介(いっかい):一本の草。取るに足らない些細なもの。
パーマリンク(英語スラッグ)
righteousness-over-all
→「すべてに優先されるのは義である」という伊尹の精神を表すスラッグです。
その他の案:
no-compromise-on-principle
(信念に妥協なし)even-a-blade-of-grass
(草一本すら義なくば動かさぬ)integrity-over-advancement
(出世よりも誠実を)
この章は、孟子が理想とする人格者の姿――**「義によってのみ行動する者」**を具体的に描いたものであり、伊尹の清廉な精神は現代にも通じる指針です。
コメント