道を貫く者は、どの立場にいても「同じ心」で生きている
孟子は、**聖王のもとで公務を果たした禹(う)・稷(しょく)と、乱世に個人として徳を磨いた顔回(がんかい)**の行動を比較しながら、
彼ら三人はすべて「同じ道(=仁義と誠実)」を生きた者であると断言します。
- 禹は天下の洪水を治めるために尽力し、職責の重さから三度も自宅の門を通りながら家に入る暇さえなかった。
- 稷は農業を司り、天下の人が飢えているならば「自分が飢えさせているのと同じことだ」と考え、身を粉にして働いた。
- 顔回は乱世の中、陋巷(ろうこう=貧しい路地)に住み、一椀の飯と一杯の水で満ち足りていた。
周囲はその暮らしに耐えられなかったが、顔回はまったく苦にせず、自らの修養を楽しみ続けた。
孔子は、禹と稷を賢者と称し、顔回もまた賢者として讃えた。
孟子は、三人の生き方の違いは時代と立場の違いにすぎず、もし立場を交換したなら、彼らは皆同じ行動を取ったであろうと述べています。
喧嘩の比喩で「立場に応じた行動」を教える
孟子は最後に、日常の喧嘩を引き合いに出して説明します。
- 同じ部屋の中で人が殴り合っていたら、たとえ髪を整えていなくても、冠(かんむり)のひもを結んでいなくても、
すぐに飛び出して止めに入るべきである(=これは禹・稷のような立場)。 - 一方で、近隣の人々の喧嘩であれば、そこまで慌てて飛び出す必要はない。
むしろ過剰な介入は「惑い(=いきすぎ)」であり、扉を閉じて見守っていてもよい(=これは顔回の立場)。
このたとえを通じて孟子は、
道は一つであっても、その実践は立場や状況によって適切に変わるべきであるという「中庸」の重要性を教えています。
原文(ふりがな付き)
禹(う)・稷(しょく)、平世(へいせい)に当(あ)たりて、三たび其(そ)の門(もん)を過(す)ぐれども入(い)らず。孔子(こうし)之(これ)を賢(けん)とす。
顔子(がんし)は乱世(らんせい)に当たりて、陋巷(ろうこう)に居(お)り、一箪(いったん)の食(しょく)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)。
人は其の憂(うれ)いに堪(た)えざるも、顔子は其の楽(たの)しみを改(あらた)めず。孔子之を賢とす。
孟子(もうし)曰(いわ)く、禹・稷・顔子は道を同じくす。
禹は天下に溺(おぼ)るる者有れば、己(おのれ)之を溺らすがごとしとし、
稷は天下に飢(う)うる者有れば、己之を飢えしむるがごとしとす。
是(こ)れを以(も)って其の急(きゅう)なること如(か)くのごとし。
禹・稷・顔子、地(ち)を易(か)うれば、則(すなわ)ち皆然(しか)り。
今、同室(どうしつ)の人、闘(たたか)う者有らば、救(すく)うに、被髪(ひはつ)纓冠(えいかん)しても可(か)なり。
郷隣(きょうりん)の闘いに、被髪纓冠して救えば、則ち惑(まど)いなり。
戸(と)を閉(と)ずと雖(いえど)も、可なり。
心得の要点
- 道(徳や正義)は立場や時代が変わっても本質的に同じである。
- 禹・稷は天下のために尽くし、顔回は自らの修養を貫いた。それぞれの「賢さ」は同質の徳に基づいている。
- 行動は環境と責任に応じて変わるが、根底の精神は一つでなければならない。
- 軽率な介入は「惑い」となり、中庸の判断=分をわきまえることが君子の要件である。
パーマリンク案(スラッグ)
- same-path-different-roles(違う立場、同じ道)
- virtue-in-context(立場による徳の実践)
- know-your-role-keep-your-way(役割をわきまえ、道を守る)
この章は、個人主義と社会的責任の調和をどう図るかという普遍的なテーマに応えるものです。
孟子は、「君子とは一貫した価値観を持ちながら、状況に応じた柔軟さをも備えている者」だと明確に語っており、現代のリーダーシップや倫理的判断にも通ずる貴重な教訓となっています。
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