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見た目の節操より、その本質を問え

― 本物の「廉潔」は見かけではなく、徹底した自己確認にある

斉の人・匡章(きょうしょう)は、陳仲子(ちんちゅうし)の節操を称えて孟子にこう語った。

「仲子は、兄が得ていた俸禄が不義のものだとして、実家を出て於陵に移り住みました。
飢えに耐えて三日間何も口にせず、耳も聞こえず、目も見えなくなったとき、虫に半分食われた李(すもも)の実を拾って三口食べたところ、やっと聴力と視力を取り戻したそうです。彼はまことに廉潔な人ではないでしょうか?」

孟子は一旦、仲子を称える。

「斉国の士の中では、私は仲子を大物だと評価します」

しかし、すぐに核心を突く指摘を加える。

「とはいえ、彼を“廉潔の士”だとは認めません」

孟子の見方は、行為の結果や姿勢よりも、その本質を問うというものだった。

もし仲子のような「節操」が理想であるならば、究極的にはみみず(蚓)になるしかないと孟子は語る。

「蚓(みみず)は、上は乾いた土を食い、下は地中の水を飲み、他人の力を借りずに生きている」
― つまり、誰の助けも受けず、誰の作った家にも住まず、誰の育てた食べ物も口にしない存在である

しかし、仲子が住む家は、伯夷のような清廉な者が建てたものか、それとも盗跖(とうせき)のような悪人が建てたものか、わからない。
また、彼が食べる穀物も、清廉な人が育てたかどうか定かではない。
それでも生活している以上、現実の中で完全な潔癖を貫くことは事実上不可能であり、
潔癖であることを貫く姿勢だけで「廉潔の士」と称することは、表面的すぎると孟子は見抜いている。


原文(ふりがな付き引用)

「仲子の操(そう)を充(み)たさんとならば、則(すなわ)ち蚓(いん)にして後(のち)可(か)なる者なり」
― 仲子の節操を極めるには、みみずになるしかない


注釈

  • 匡章(きょうしょう)…孟子の知人。人の名声を信じる傾向があった。
  • 陳仲子(ちんちゅうし)…兄の俸禄を「不義」として断絶し、孤高に生きたとされる人物。
  • 伯夷(はくい)…古代の清廉の士。不義の食を断ち餓死したと言われる。
  • 盗跖(とうせき)…伝説的な大盗賊。孟子ではしばしば悪人の象徴として登場。
  • 蚓(みみず)…比喩的に、自給自足で極限まで潔癖を貫く存在。
  • 巨擘(きょはく)…大物。親指の意から転じて、群を抜いた人物のたとえ。

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この章で孟子が伝えているのは、「節操」や「清廉さ」といった徳も、表面的な行動ではなく、その本質を問い直すことが重要であるという教えです。

人が住む家、食べるもの、それがどこから来ているか、すべてを明確にしきれる者はいない。
だからこそ、他人が称える姿よりも、自分自身でその根拠と限界を考えることが必要なのだ――
孟子は、自立した思考の重要さを、この一章に込めています。

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