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ごまかしの弁解は、真の反省を遠ざける

燕の人々が斉に反旗を翻した。これは、孟子がかねてから斉王に忠告していた“燕を正しく治めよ”という助言を無視した結果であった。

事態が悪化したことで、斉王はさすがに後悔の念を口にする。「私は孟子に対して非常に恥ずかしく思っている」と。
この率直な反省の言葉に対し、すかさず斉の臣・**陳賈(ちんか)**が口を挟む。
彼はこう言う――「王よ、ご心配には及びません。王はご自身を周公と比べて、どちらが仁(じん)と智(ち)において勝っていますか?」

王は驚いて返す。「な、何ということを言うのか!」

しかし陳賈はさらに言葉を重ねる。
「周公は兄の**管叔(かんしゅく)**を殷の地の監督に任じましたが、その管叔は周に背きました。
もし周公が最初から裏切りを知っていて任じたのなら、それは“不仁”です。
知らずに任じたなら“不智”です。つまり、あの聖人・周公でさえ、仁と智を完全に備えていたわけではなかったのです。
ましてや、王が仁智を尽くしていなくても、何の恥じることがありましょう。私が孟子に会って、この点を弁解してまいりましょう」


この章句の本質は、おべっか使い(=佞人 ねいじん)の危険性をあぶり出すところにある。

陳賈の言葉は一見すると理にかなっているように思えるが、実際には真の反省を煙に巻き、王の過失を曖昧にしようとする巧妙な言い訳である。
しかも、孟子が敬愛していた「周公」を持ち出して王と比べるという不敬ぎりぎりの論法をもって、王を気分よくさせようとする点に、佞人の本性があらわれている。

孟子の思想は、言葉は理にかなっていても、動機が不純であれば道を誤るという姿勢に基づいている。
この場面は、そうした孟子の正義感の文脈において、王の“恥じる心”を覆い隠してしまうような甘言の危うさを見事に描いた一節である。


原文(ふりがな付き引用)

燕人(えんじん)畔(そむ)く。王(おう)曰(い)わく、吾(われ)甚(はなは)だ孟子(もうし)に慙(は)ず。

陳賈(ちんか)曰(い)わく、王(おう)、患(うれ)うること無(な)かれ。
王(おう)自(みずか)ら以(も)って周公(しゅうこう)と孰(いず)れか仁(じん)且(か)つ智(ち)なりと為(な)すか。

王(おう)曰(い)わく、悪(あく)、是(こ)れ何(なん)の言(げん)ぞや。

曰(い)わく、周公(しゅうこう)は管叔(かんしゅく)をして殷(いん)を監(かん)せしむ。
管叔(かんしゅく)、殷を以(も)って畔(そむ)く。

知(し)りて之(これ)をせしむれば、是(こ)れ不仁(ふじん)なり。
知らずして之(これ)をせしむれば、是(こ)れ不智(ふち)なり。

仁智(じんち)は、周公(しゅうこう)も未(いま)だ之(これ)を尽(つ)くさざるなり。
而(し)るを況(いわ)んや王(おう)に於(お)いてをや。

賈(か)請(こ)う、見(まみ)えて之(これ)を解(と)かん。


注釈(簡潔な語句解説)

  • 佞人(ねいじん):権力者にへつらい、巧言でごまかす者。儒家では特に嫌われる存在。
  • 周公・管叔:理想の聖人(周公)と、裏切り者(管叔)を対比させた例え。ここでは美談を逆手にとって免罪へ導こうとする。
  • 仁智を尽くす:人としての徳(仁)と知恵(智)を完全に備えること。
  • 解す:弁解する、釈明する。

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この章は、「正論を言う」ことと「耳ざわりの良いことを言う」ことの違いを明確にします。
反省すべきときにこそ、厳しく真を語る者こそが「忠臣」であり、取り繕いだけの弁解は、国をも誤らせる毒になりかねない。

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