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惻隠の心なきは人にあらず

― その心の動きに、人間らしさが宿っている ―

孟子は語る。
「人にはみな、人に忍びざるの心がある」

そのことは、ある一つの具体的な場面を想像すれば、はっきりするという。

たとえば――
不意に、幼い子どもが井戸に落ちそうになるのを見たとする。

その瞬間、どんな人でも思わず「はっ」として、驚き、恐れ、
「どうにかして助けたい!」という惻隠(そくいん)の心が湧いてくるはずである

孟子は、このとき人が起こす心の動きが、
「打算」や「自己利益」のためでないことを強調する。

  • それは、幼児の両親と関係を築きたいからではない
  • 誰かに褒められたいからでもない
  • 助けなかったときに非難されるのが怖いからでもない

むしろそれは、
**「人が人であるがゆえに、自然と起こる心の動き」**なのだ。


惻隠の心は「人間である証」

孟子は、この心を「惻隠の心」と呼び、
これを持たぬ者を、きっぱりとこう断ずる。

惻隠の心なきは、人にあらず」。

そして、惻隠の心だけでなく、人間として備わっているべき他の三つの心も挙げる:

  1. 羞悪(しゅうお):羞じ、悪を憎む心(→ 正義・「義」の端)
  2. 辞譲(じじょう):譲る心、謙る心(→ 礼儀・「礼」の端)
  3. 是非(ぜひ):善悪・正誤を見分ける心(→ 判断・「智」の端)

孟子は、これら四つの心をまとめて「四端(したん)」と呼び、
これこそが人間の本性に備わる「善の芽」であると説く。


原文(ふりがな付き引用)

「人(ひと)皆(みな)、人に忍(しの)びざるの心(こころ)有(あ)りと謂(い)う所以(ゆえん)の者(もの)は――

今(いま)人(ひと)、乍(たちま)ち孺子(じゅし)の将(まさ)に井(い)に入(い)らんとするを見(み)れば、
皆(みな)怵惕(じゅってき)惻隠(そくいん)の心有り。

是(これ)は、孺子の父母(ふぼ)に交(まじ)わらんとする所以に非(あら)ざるなり。
郷党(きょうとう)朋友(ほうゆう)の誉(ほま)れを求(もと)めんとする所以に非ざるなり。
其(そ)の声(こえ)を悪(にく)んで然(しか)るに非ざるなり。

是(こ)れに由(よ)りて之(これ)を観(み)れば、

● 惻隠の心無きは、人に非(あら)ざるなり。
● 羞悪の心無きは、人に非ざるなり。
● 辞譲の心無きは、人に非ざるなり。
● 是非の心無きは、人に非ざるなり。」


注釈(簡潔版)

  • 惻隠の心:他人の苦しみに心を動かされ、助けようとする同情心。これが「仁」の芽生え。
  • 羞悪の心:恥を知り、悪を憎む心。これは「義」の端。
  • 辞譲の心:譲る、控える、遠慮する心。これは「礼」の端。
  • 是非の心:善悪・正誤の判断を下す心。これは「智」の端。
  • 四端(したん):仁・義・礼・智の四徳の芽。孟子の性善説の根幹を成す概念。

パーマリンク(英語スラッグ案)

  • to-be-human-is-to-care(思いやりこそ人間らしさ)
  • no-compassion-no-humanity(惻隠なきは人にあらず)
  • four-seeds-of-goodness(善の四つの芽)

この章は、孟子の性善説の決定的な証明として知られています。
「善き行いは学ぶものではなく、心の中にすでにあるものを呼び覚ますこと」――
この思想は、人間性への深い信頼と、政治や教育の根本的方向性を照らすものです。

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