― 敬意なき比較は、学びの妨げになる ―
前章で、孟子は自らを聖人とは認めず、謙虚な姿勢を貫いた。
それを受けた公孫丑は、さらなる探究心から、思い切ってこんな質問をした――
「私は以前、誰かからこのような話を聞いたことがあります。
子夏・子遊・子張(孔門の高弟たち)は、聖人の“部分”をそれぞれ有している。
一方で、冉牛・閔子・顔淵は、聖人の“全体像”を備えてはいるが、まだ非常に微小であると。
失礼を承知でお尋ねしますが、先生はその中で、どのあたりに位置されるとお考えですか?」
その問いに対し、孟子は即座に遮った――
「もう、いい。その話はしばらくやめておこう」。
この一言には、単なる謙遜以上の意味が込められている。
孟子は、人を分類して比較する態度そのものに危うさを感じていたのである。
いかに優れた人物同士であろうと、
「誰がより“全体的”か」「誰が“部分的”か」といった比較は、
対象への敬意や学びの姿勢を損なう可能性がある。
孟子にとって、学ぶべきは人物を分解して順位をつけることではなく、
その人の生き方や志に学び、自らの道を深めていくことであった。
原文(ふりがな付き引用)
「昔者(むかし)、窃(ひそ)かに之(これ)を聞(き)けり。
子夏(しか)・子遊(しゆう)・子張(しちょう)は、皆(みな)聖人(せいじん)の一体(いったい)有(あ)り。
冉牛(ぜんぎゅう)・閔子(びんし)・顔淵(がんえん)は、則(すなわ)ち体(たい)を具(そな)えて而(しか)して微(び)なり、と。
敢(あ)えて安(いず)れに所(お)るかを問(と)う。
曰(いわ)く、姑(しばら)く是(こ)れを舎(す)てよ。」
注釈(簡潔版)
- 子夏・子遊・子張:孔子の弟子で、特定の分野(文学・弁舌・行政)に秀でた人物たち。
- 冉牛・閔子・顔淵:人格的完成に近づいた人物とされ、特に「徳行」において高く評価されている。
- 体を具えて而して微なり:全体的には備わっているが、力や完成度はまだ小さいという意味。
- 姑く是を舎てよ:この話題はやめよう。遠慮や不快の表現。比較そのものの危うさを含意。
パーマリンク(英語スラッグ案)
do-not-rank-the-wise
(賢者に順位をつけるな)respect-over-comparison
(比較より敬意を)some-things-should-not-be-asked
(問うべきでないこともある)
この章は、「安易な比較」は学びや敬意を曇らせるという孟子の姿勢を鮮やかに映し出します。
人の価値は“全体”か“部分”かではなく、その誠意と歩みにこそ宿る――その静かな叡智が、孟子の一言に凝縮されています。
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