― 「取る」か「取らぬか」は、民の意思によって決まる
斉が燕を打ち破ったあと、宣王は「燕を取るべきか」と孟子に問うた。
それに対して孟子は、戦勝による領土支配の可否を、民意の有無によって判断せよと説いた。
もし、燕の民が斉の統治を喜び、歓迎するのであれば、それを取ってもよい。
そのように行動した古の王――それが周の武王である。
逆に、民が斉の支配を望まないのであれば、取るべきではない。
その道を選んだ王――それが武王の父、文王である。
戦の是非を問う基準を、単なる「勝利」ではなく、人民の幸福と選択に置いたのが、孟子の画期的な思想である。
燕の人々が食べ物(簞食)や飲み物(壺漿)を持って王の軍を迎えたのは、
水に溺れ、火に焼かれるような暴政から逃れたい一心だった。
だからもし、斉が燕を支配しておきながら、以前よりも深い水、熱い火のような政治を行えば、
燕の民は再び他国の軍を歓迎するようになってしまう――と孟子は警告する。
民意を無視した支配は、いずれ同じ報いを受ける。
これは孟子が示した民の意思による統治の正当性=民族自決の原理であり、
古代中国思想におけるきわめて先進的な政治理念である。
引用(ふりがな付き)
「孟子(もうし)対(こた)えて曰(い)わく、之(これ)を取(と)りて燕(えん)の民(たみ)悦(よろこ)ばば、則(すなわ)ち之(これ)を取(と)れ。
古(いにしえ)の人(ひと)之(これ)を行(おこな)う者(もの)有(あ)り、武王(ぶおう)是(こ)れなり。
之(これ)を取(と)りて燕(えん)の民(たみ)悦(よろこ)ばずんば、則(すなわ)ち取(と)ること勿(なか)れ。
古(いにしえ)の人(ひと)之(これ)を行(おこな)う者(もの)有(あ)り、文王(ぶんおう)是(こ)れなり。
万乗(ばんじょう)の国(くに)を以(もっ)て万乗の国(くに)を伐(う)ち、簞食壺漿(たんしこしょう)して以(もっ)て王(おう)の師(し)を迎(むか)うるは、豈(あ)に他(た)に有(あ)らんや。
水火(すいか)を避(さ)けんとてなり。水の益々(ますます)深(ふか)きが如(ごと)く、火の益々(ますます)熱(あつ)きが如(ごと)くんば、亦(また)運(うん)らんのみ。」
注釈
- 悦ばば(よろこばば)…喜び、望んだならば。統治を受け入れる意思の表明。
- 簞食壺漿(たんしこしょう)…民が飯と水をもって軍を迎えること。王師(正義の軍)を歓迎する表れ。
- 水火(すいか)…水に溺れ、火に焼かれるような、耐え難い暴政の象徴。
- 亦運らんのみ(またうんらんのみ)…再び同じ運命に遭うことになるという警告。
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