「できるのに、やらない――“力”より“意志”が成果を決める」
孟子は斉の宣王に問いかける。
「もし誰かが、『私は百鈞もの重い物は持ち上げられるのに、鳥の羽一枚は持ち上げられません』とか、
『秋に生えた動物の細毛の先端まで見えるのに、車いっぱいの薪が見えません』などと言ったら、王はそれを信じますか?」
王が「いいや、そんなのは信じられない」と答えると、孟子は本題に入る。
「では王よ。あなたの“恩(思いやり)”は、罪なき牛や禽獣にまで届いているのに、
なぜ民衆には届かないのですか?」
つまり――
- 羽根一枚が持ち上がらないのは、力を使わないから
- 輿の薪が見えないのは、目を使わないから
- 民が安んじられないのは、仁(恩)を用いないから
ゆえに孟子は結論づける。
「王が“王者”になれないのは、できないからではない。やろうとしていないだけなのです」
これは、孟子が常に重視してきた**「心の働き」=仁義の実行力**こそが、為政者にとって最大の責任であり、能力の問題ではないという強い主張です。
言い訳を打ち破る、心の鏡のような一言
孟子はここで、王に「あなたには力も目も、そして心もある。ただ、それを民に向けて使っていないだけだ」と教えています。
これは、現代における組織やリーダーシップの文脈でも共通する洞察です。
- 「リソースが足りないからできない」
- 「時間がないから仕方ない」
- 「制度上できない」
そう言って諦める前に、自分の意思で「使っていない」だけではないか?
それを問うこの孟子の言葉は、まさに責任ある者に贈られる“鏡”のような問いです。
引用(ふりがな付き)
「曰(い)く、吾(わ)が力(ちから)は以(もっ)て百鈞(ひゃっきん)を挙(あ)ぐるに足(た)れども、以て一羽(いちう)を挙ぐるに足らず。
明(めい)は以て秋毫(しゅうごう)の末(すえ)を察(さっ)するに足れども、輿薪(よしん)を見(み)ず。則(すなわ)ち王(おう)之(これ)を許(ゆる)さんか。
曰く、否(いな)。今(いま)、恩(おん)は以て禽獣(きんじゅう)に及(およ)ぶに足れども、功(こう)は百姓(ひゃくせい)に至(いた)らざる者(もの)は、独(ひと)り何(なん)ぞや。
然(しか)らば則(すなわ)ち一羽の挙(あ)がらざるは、力(ちから)を用(もち)いざるが為(ため)なり。
輿薪の見えざるは、明(めい)を用いざるが為なり。百姓の保(やす)んぜられざるは、恩(おん)を用いざるが為なり。
故(ゆえ)に王の王(おう)たらざるは、為(な)さざるなり。能(あた)わざるに非(あら)ざるなり。」
注釈
- 百鈞(ひゃっきん)…非常に重い物。1鈞=約15kgとされ、百鈞は1500kg以上。
- 秋毫(しゅうごう)…秋に生える動物の極めて細い毛のこと。視力の鋭さのたとえ。
- 輿薪(よしん)…車に積んだ薪。大きな物体の象徴。
- 為さざるなり、能わざるに非ざるなり…「できないのではなく、やらないだけだ」という孟子の名言。格言としても多用される。
原文
曰:「復於王者曰:吾力足以舉百鈞,而不足以舉一羽;
明足以察秋毫之末,而不見輿薪,則王許之乎?」曰:「否。」
「今恩足以及禽獸,而功不至於百姓者,獨何與?
然則一羽之不舉,爲不用力焉;輿薪之不見,爲不用明焉;
百姓之不見保,爲不用恩焉。故王之不王,不爲也,非不能也。」
現代語訳(逐語・一文ずつ訳)
- 「ある者が王に進言した。
『私は百鈞もの重さを持ち上げる力があるが、
一羽の羽根を持ち上げることができないと言ったら、
王はそれを信じますか?』」 - 「王は『信じない』と答えた。」
- 「『私は秋の鷹の羽毛の先端さえ見えるほど目が良いが、
薪を載せた車が見えないのだ』と言ったら、
王はそれを認めますか?」 - 「王は『認めない』と答えた。」
- 「『今、あなたの恩は禽獣にまで及んでいるのに、
その功が百姓にまで届いていないのは、どういうことですか?』」 - 「羽が持ち上がらないのは、力を使っていないから。
車の薪が見えないのは、目を使っていないから。
百姓が救われないのは、恩を使っていないからなのです。」 - 「つまり、王が“王道”を実現できていないのは、
できないからではなく、やっていないからです。」
用語解説
- 百鈞(ひゃくきん):非常に重いものの喩え(1鈞は約30斤/約18kg、百鈞は1800kg程度)。
- 一羽(いちう):一枚の羽。極めて軽いものの喩え。
- 秋毫(しゅうごう):秋に生え変わる獣の細い毛。微細なものの代表。
- 輿薪(よしん):車に積んだ薪。大きく目立つもの。
- 恩(おん):人に対する慈しみ・愛情。
- 王たらざるは、為さざるなり、非能わざるに非ざるなり:
「王道を実現できていないのは、能力がないのではなく、
意志・行動がないからだ」という意味。
全体の現代語訳(まとめ)
ある者が王にこう語った。
「私は重いもの(百鈞)を持ち上げることができるのに、
羽のように軽いものを持ち上げることはできません、
と言ったら、王はそれを信じますか?」
王は「信じない」と答えた。
「私は極細の毛を見分けられる視力があるのに、
大きな薪の束が見えない、と言ったら、王は認めますか?」
王は再び「認めない」と答えた。
「今、あなたの慈しみの心は獣にまで及んでいるのに、
その成果が百姓に届いていないのは、なぜでしょうか?
それは、力を使っていないから、目を使っていないから、
恩を行動として発揮していないからに他なりません。
だから、あなたが真の王者になれないのは、
できないからではなく、やらないからなのです。」
解釈と現代的意義
孟子はこの章句で、王者に必要なのは**「仁」だけでなく、それを実行に移す力=意志と行動」**だと明確に示します。
王には民を思いやる心がある。
しかしその心を制度や政治として表さなければ、結果は伴わない。
この章句は、能力があるのに行動しない人への強い叱咤でもあります。
「自分には力があるのに、結果が出ない」──
それは**「能力の問題」ではなく「行動していないから」だ**という
孟子の鋭い洞察が現れています。
ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
- 「できるのに、やらない」では結果は変わらない
優秀な人材でも、アイデアを行動に移さなければ価値は生まれない。
“やらない理由”を並べるのではなく、動くことこそ成果への道。 - 「情はあるが、制度が動かない」では意味がない
社員や顧客に思いやりがあっても、それがルール・仕組み・対応策になっていなければ、
現場では“冷たい会社”と見なされる。
情と構造の接続が組織の信頼を生む。 - 「行動こそが、誠意の証」
部下への思いやり、顧客への配慮、社会への姿勢──
“思ってる”ではなく、“やっている”ことが人の心を動かす。
まとめ
この章句は、孟子の哲学の中でも非常に実践的で鋭く、
リーダー・管理職・経営者すべてに突き刺さる戒めの言葉です。
「できない」のではない。「やらない」だけだ。
あなたに備わっている力・知恵・慈しみを、実行に移すかどうかが、すべての分かれ道なのです。
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