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自分の“良心”を肯定されたとき、人は耳を傾け、笑顔になる

孟子は、前章で語った“牛を羊に代えた話”の真意を探る中で、**王の中にある「忍びざる心(=他者の苦しみを見過ごせない心)」**に光を当てた。

すると斉の宣王は、それを受けて正直に答える。

「確かに民はそう言っているようだ。だが斉がどれほど小国でも、私は牛一頭を惜しんだわけではない。
ただ、罪なき牛が恐れおののいて死地に向かう姿を見るのが耐えがたかった。それで羊に代えさせたのだ」

この言葉に対し、孟子はこう返す。

「王よ、百姓が“王が物惜しみした”と言うのを、気に病む必要はありません。
小さな羊に、大きな牛を代えたのですから、彼らにはそう見えるのも無理はありません。
ですが、もし王が“罪なき命が殺される”のを悼んだのだとすれば、それが牛であろうと羊であろうと、本質は変わらないのです」

これに宣王は笑い、心から納得する。

「なるほど。私は財を惜しんで羊に代えたのではない。
百姓が私のことを物惜しみしたと思ったのも、今となればもっともだ」

この一連のやりとりで示されたのは、自分の中にある“善”を見抜いてくれたとき、人は嬉しくなり、心を開くという真理である。


引用(ふりがな付き)

「王(おう)曰(い)わく、然(しか)り。百姓(ひゃくせい)なる者有(あ)り。斉国(せいこく)、褊小(へんしょう)なりと雖(いえど)も、吾(われ)何(なん)ぞ一牛(いちぎゅう)を愛(お)しまんや。
既(すで)に其(そ)の觳觫(こくそく)として、罪(つみ)無(な)くして死地(しち)に就(つ)くが若(ごと)くなるを、忍(しの)びず。故(ゆえ)に羊(ひつじ)を以(もっ)て之(これ)に易(か)えしなり。

曰(い)く、王(おう)、百姓の王を以(も)て愛(お)しめりと為(な)すを、異(あや)しむこと無(な)かれ。小(しょう)を以(もっ)て大(だい)に易(か)う、彼(かれ)悪(いづ)くんぞ之(これ)を知らん。
王若(も)し其(そ)の罪(つみ)無(な)くして死地に就くを隠(いた)まば、則(すなわ)ち牛と羊と何ぞ択(えら)ばん。

王笑(わら)って曰く、是(これ)誠(まこと)に何(なん)の心(こころ)ぞや。我(われ)、其の財(たから)を愛しんで、之に易(か)うるに羊を以てせしに非(あら)ざるなり。宜(むべ)なるかな、百姓の我を愛しめりと謂(い)える。」


注釈

  • 褊小(へんしょう)…狭くて小さいこと。国の規模の比喩。
  • 觳觫(こくそく)…恐れおののく様子。
  • 忍びず…耐えられない、見るにしのびない。
  • 隠(いた)む…悼む、深く悲しむこと。
  • 宜なるかな(むべなるかな)…もっともなことだ。

パーマリンク案(英語スラッグ)

  • see-the-good-in-others(他人の善を見抜け)
  • hearts-open-to-kindness(優しさに心は開く)
  • confirm-inner-compassion(内なる仁を肯定せよ)

補足:人は“責め”よりも“共感”で動く

この章が描いているのは、単なる言い訳の受容ではなく、心の深い部分を信じ、そこに光を当てることの力です。

孟子は、王の“忍びざる心”を認めたうえで、誤解される構造(小を以って大に代えた)にも理解を示し、王の中の善意を育てていきます。
この“共感から始まる導き”があったからこそ、宣王は笑い、納得し、自らの気持ちを素直に語るに至ったのです。

現代においても、人を動かす真の力は、指摘ではなく「気づかせて伸ばすこと」にある。この孟子のやり方は、教育・リーダーシップ・対話における普遍的な原理といえるでしょう。

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