貞観十一年、太宗が洛陽の離宮で遊覧中、煬帝が築いた池と宮殿を見ながら、側近たちに語った。
「煬帝はこれらを造るために民を酷使し、民の暮らしより自身の贅沢を優先した。
詩人が詠んだ『どの日も軍が動き、織機が空になった』という言葉は、まさにその姿そのものだ。
そして、民の怨嗟が爆発し、ついには殺され、国も滅んだ」
さらに太宗は、隋が滅んだ原因は天命だけではなく、「忠臣の不在」こそが致命的だったと断じた。
宇文述・虞世基・裴蘊ら高官は、諫めることもせず、ただへつらって無道を助長した。
これに対し、長孫無忌も応えた。
「君は忠言を聞かず、臣は自らの保身ばかりを求めた――その結果が国家の崩壊です」
太宗は深くうなずき、「今、我々が隋の遺制を受け継いでいるのならば、正しき道を広め、未来の世まで保ちたい」と語った。
■心得
- 国家の安定は、君と臣の相互の是正によって成る
- 諫言を封じ、へつらいが栄えるとき、王朝は滅びる
- 繁栄に酔うことなく、忠言を受け入れる度量こそ、真の帝徳である
■引用(ふりがな付き)
「隋氏(ずいし)の傾(たお)れしは、豈(あ)に惟(た)だ其の君(きみ)無道(むどう)のみならんや。
亦(また)た股肱(ここう)に良(りょう)無(な)きに由(よ)る」
■注釈
- 積翠池(せきすいち):煬帝が造営した洛陽宮内の人工池。
- 宇文述・虞世基・裴蘊:隋の高官たちで、煬帝の暴政に加担し、諫言を怠ったとされる人物。
- 股肱(ここう):君主を支える両腕のような臣下の意。ここでは中枢の重臣たち。
- 行幸(ぎょうこう):天子が地方へ出かけること。度重なる行幸は民を疲弊させた。
コメント