貞観二十二年、度重なる軍事遠征と宮殿建設により、唐の民は疲弊していた。
そのとき、内官である徐氏は一人の女性として、誠意と知恵に満ちた上奏を太宗に捧げた。
彼女は、こう訴えた。
「民は今、風雨に恵まれ、平穏な暮らしを得ています。
陛下の功績は、泰山封禅を行った王たちに勝るものでありながら、それを誇らず、慎ましくされています。
しかしながら、軍事と建築の両立は民を疲れさせ、無辜の兵士が命を落とす今の状況には、深く憂いを感じます」
さらに彼女は、
- 軍事:遠征による兵士と物資の浪費
- 土木:次々と起こる宮殿建設による負担
- 奢侈:装飾や贅沢が素朴な風俗を損なう危険
を一つひとつ論理立てて指摘した。
そして、秦の始皇帝や晋の武帝といった過去の覇者たちが、その功を誇り、民を顧みなかったことが、かえって滅亡の因となったと説いた。
「知ることは易く、行うことは難い」と語る彼女の言葉は、太宗の英知に強く訴えかけた。
欲を抑え、節度を守り、民を安んじてこそ、帝王の道は永く続く――その願いが、上奏の一言一句に込められていた。
太宗はこの上奏に深く感動し、徐氏に特別な恩賞を授けたという。
■引用(ふりがな付き)
「知(し)ることは非(ひ)難(かた)しからず、行(おこな)うことは易(やす)からず。
志(こころざし)は業(ぎょう)著(あら)われしに驕(おご)り、体(からだ)は時(とき)安(やす)けくして逸(いつ)を求(もと)む。
伏(ふ)して願(ねが)わくは、志(こころざし)を抑(おさ)え、心(こころ)を裁(さば)き、
初(はじ)めを慎(つつし)み、細(さい)を軽(かろ)んじて重徳(じゅうとく)を添(そ)え、
今(いま)の是(ぜ)を択(えら)びて、昔(むかし)の非(ひ)を替(か)えよ」
■注釈
- 充容徐氏(じゅうようじょし):太宗の側近に仕えた才媛で、文学・経書に明るく、誠実な進言を残した人物。
- 封禅(ほうぜん):皇帝が天に成功を報告し、大地を鎮める儀礼。泰山で行われるのが慣例。
- 翠微宮・玉華宮:太宗が暑気を避けるために終南山に建てた離宮。建築は多くの人力と費用を要した。
- 桀王・紂王:いずれも暴政と奢侈によって王朝を滅ぼしたとされる古代の君主。
- 知足・知止(ちそく・ちし):道教において強調される「満足を知り、過剰を避ける」という節度の徳目。
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