貞観十八年、太宗は高句麗の泉蓋蘇文が主君を殺し、民を苦しめていることに怒り、討伐を計画した。
それに対し、諫議大夫の褚遂良は静かに、しかし深い憂慮を込めて進言した。
「陛下の英略は誰にも及びません。過去、隋末の群雄割拠を平定し、突厥や西域の侮りにも見事に対処されました。
しかし今回は事情が違います。遼河を渡っての遠征は、たとえ陛下が勝つとしても、万が一に備えなければなりません。
もし敗れたとき、陛下はその屈辱を晴らすために再び軍を起こすでしょう。
それが繰り返されれば、国の行く末は危うくなります」
太宗はこの言葉に耳を傾け、「もっともだ」と納得した。
戦いにおいて恐れるべきは、一度の敗北ではない。
敗北を認められず、雪辱を期して無謀を繰り返すことである。
その怒りが理を失わせ、国をもろともにする。
為政者に必要なのは、勝つ勇気より、退く覚悟である。
■引用(ふりがな付き)
「万一(まんいち)獲(え)ずんば、以(もっ)て遐方(かほう)に威(い)を示(しめ)すなし。必(かなら)ず更(さら)に怒(いか)りを発(はっ)し、再(ふたた)び兵衆(へいしゅう)を動(うご)かさば、此(ここ)に至(いた)りては、安危(あんき)測(はか)り難(がた)し」
■注釈
- 莫離支(ばくりし):高句麗における宰相の称号。泉蓋蘇文がこの地位をもって王を殺した。
- 神算(しんさん)・兵機(へいき):神のような計略、戦の機微を見抜く力。褚遂良が太宗を称えて用いた語。
- 遐方(かほう):遠方の地。ここでは高句麗など唐から遠く離れた地域を指す。
- 安危難測(あんきなんそく):国家の安定と崩壊の行方が分からなくなるという警告。
コメント