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第四章 慈愛の行為で兵士を奮い立たせる

■現代語訳

貞観十九年(645年)、太宗は高句麗(朝鮮半島北部)への遠征を行い、唐軍は定州(現在の河北省定県)に宿営した。

兵士たちが次々と到着する中、太宗は自ら定州城の北門の望楼に立ち、兵士たちを出迎えて労(ねぎら)った

その時、一人の兵士が病にかかって歩けなくなっていた。
太宗はその兵士に対して詔(みことのり)を下し、床に寝かせて容体を詳しく問い、州県の医師に命じて治療させた

この出来事を知った将軍も兵士も、心から感動し、皆が喜んで従軍に臨もうとする気持ちになった


遠征からの帰途、大軍は柳城(現在の遼寧省朝陽県)に宿営した。

そこで太宗は詔を下し、戦死した兵士たちの遺骨を集め、牛・羊・豚の三牲を供物として慰霊祭を行い、自らその場に臨んで哭泣(こっきゅう)した
その哀悼の様子に、軍中の兵士たちは皆、涙を流した。

この慰霊の場に居合わせた兵士たちは、やがて帰国してそれぞれの故郷で語った。

「我が子の葬儀に、天子自らが哭いてくれたのだ
これでは、死んでも何の恨みもない」

と、戦死者の親たちは語ったという。


さらに、太宗が遼東地方で白巌城を攻撃していた際、右衛大将軍の李思摩が流れ矢にあたった。

太宗は自ら近づき、その傷口の血を口で吸い出してやった
これを見た将兵たちは、皆が深く感動し、戦意を奮い立たせた


目次

■注釈と背景

  • 定州:河北省中部、軍事上の拠点。
  • 柳城:遼寧省中西部の要衝で、遠征軍の帰還ルートに位置。
  • 白巌城:高句麗の北西部の重要な軍事拠点。
  • 李思摩(りしば):もと突厥の王族、唐に降伏して将軍に任ぜられた。名は阿史那思摩。忠誠心が高く評価された人物。

■解説と評価

この章は、太宗の「仁惻(慈愛と憐憫)」の徳治政治を如実に示す感動的なエピソードです。


1. 皇帝自らが兵士をいたわる姿勢

太宗は、病気の兵士一人のために、寝所を整え、医師を手配するという細やかな配慮を見せました。
これにより、兵士たちに「自分は決して使い捨てではない」という安心と信頼が生まれ、士気が一気に高まりました。


2. 戦没者を丁重に弔い、遺族の心を慰める

柳城での戦死者への祭礼と太宗自身の哭礼は、単なる儀式ではなく、皇帝の真心からの哀悼です。

この行為は、兵士本人だけでなく、遺族に対しても「天子が我が子を思ってくれている」という尊厳と慰めを与えています。


3. 信頼関係が軍を動かすという戦略的徳政

李思摩の傷口の血を吸い出すという行動は、最高指導者が命を懸けて部下を思うという、かつてない感動的な場面です。

これにより、兵士たちの忠誠心と戦意は大きく鼓舞され、戦争の結果以上に、統治者と民の心の結びつきを深める結果となりました。


4. 儒教的価値観に基づく“仁政”の実践

本章全体は、「仁」「恕」「孝」など、儒教における根本的な徳目を実践した太宗の政治姿勢を明確に伝えています。

「上に仁あれば、下に忠あり」
――この言葉を体現した太宗の姿は、後の君主たちにとって模範とされ続けました。


■要点まとめ

項目内容
慈愛の表現病兵を慰問、治療を命じる
哀悼の誠意戦没者の遺骨を集め、皇帝自らが哭礼
感動の連鎖兵士の家族が「天子に哭いてもらえた」と語る
指導者の献身負傷将軍・李思摩の血を皇帝自ら吸い出し、兵士の士気を高める
政治理念の体現儒教的な「仁惻」の思想による心の統治(徳治)

この章は、「政治とは人心を得ることにある」という根本を教えてくれる、徳治の極致を描いた章です。

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