■現代語訳
貞観二年(628年)、関中地方(長安周辺)は日照り続きで雨が降らず、大きな飢饉が発生した。
これを受けて太宗は側近にこう語った。
「洪水や干ばつといった天候の異変は、すべて君主である私の徳が至らないために起こることである。
もし私に徳がなく、その報いとして天が罰を下すというのであれば、どうか天は私自身を責めてほしい。
それなのに、いったい人民が何の罪を犯したというのか。どうしてこんなにも苦しまなければならないのだ。
話によれば、生活に困って自分の息子や娘を売る者もいるという。私はそれを聞いて、心の底から哀れに思っている。」
そこで、太宗は御史大夫(高官)の**杜淹(とえん)**を飢饉の被災地に派遣し、実情を調査させた。
そして、宮中の倉庫にある財宝(御府金宝)を取り出して、売られた子供たちを買い戻し、それぞれの父母のもとへと返してやった。
■語句注釈
- 関中:長安(現在の西安)を中心とする、唐王朝の中核地域。
- 御府金宝(ぎょふきんぽう):皇室の私的な財庫(内蔵庫)に蓄えられていた金銀財宝。特に高級な物や貢献品、工芸品などが含まれる。
- 鬻(う)る:売る。特に「子を鬻ぐ」は、飢饉や貧困の際に子供を売って生計を立てる行為を指す。
- 御史大夫 杜淹:高官として法や制度を司る役職。被災地の巡察や監督も行った。
■解説と意義
この章は、仁政の理想像を体現したエピソードであり、唐の太宗が君主としていかに人民の苦しみに心を寄せ、実際の行動へと移したかを鮮やかに描いています。
とくに重要なのは以下の三点です:
1. 「災害=君主の不徳」という思想
儒教では、自然災害を天意の表れととらえる「災異説」があり、天子の徳が不足していれば天地の秩序が乱れるとされました。
太宗はこの思想に従い、自らの不徳を反省し、人民ではなく自分が罰せられるべきだと自責します。
2. 実際の救済策の実施
単なる悲憫ではなく、宮中の財を動かし、公費で身売りされた子どもたちを買い戻して家庭に帰すという、きわめて具体的な救済策を実行に移しています。
これは、民政・倫理・財政の三面から優れた対応であり、仁政の模範といえるものです。
3. 国庫ではなく皇室の私的財産を使った
注目すべきは、この費用が「国家の財政(公庫)」ではなく、「皇帝の私財(御府金宝)」から出されたという点です。
この行動は、人民の痛みに対する私的な責任感の表れであり、為政者の高潔さを示しています。
■要点まとめ
項目 | 内容 |
---|---|
背景 | 貞観二年の関中大旱魃と飢饉 |
太宗の態度 | 災害は自己の不徳の結果と捉え、人民の苦しみに共感 |
実行された政策 | 売られた子どもたちを御府の財で買い戻し、家庭に返す |
政治的意義 | 仁政・責任政治・財政運営のバランスを示す施策 |
この章は、太宗の徳政の中でも特に「人命の尊重と倫理的責任」を際立たせる内容であり、『貞観政要』全体の中でも指導者のあるべき姿を象徴的に示しています。
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