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第二章 天子は能を隠して衆に臨め


■現代語訳

貞観三年(629年)、太宗は給事中(上奏・伝達役)の孔穎達に質問した。

「『論語』にこうある――『能力があるのに無能の者に尋ね、知識があるのに無知の者に教えを請い、才知があるのに無いかのように振る舞い、実力があってもそれを見せず空虚なように振る舞う』。これはどういう意味なのか?」

孔穎達は答えた。

「この言葉の意は、謙虚な心がその人の徳をさらに高めることを表しています。能力があっても、それを誇らず、まだ自分には足りないと考えて、無能な者にも学ぼうとする態度です。多くの才芸を持っていても、それに満足せず、自分より劣っている者にも新たな学びを求めようとします。

こうした人物は、自分に優れた能力があってもそれを表に出さないため、あたかも無能のように見えます。内面には充実した教養や才覚があっても、外面にはそれを見せず、虚心で接するため、まるで空っぽのように見えるのです。

この謙虚な姿勢は、ただ庶民だけでなく、帝王の人徳としても同様に必要不可欠です。帝王は内には神のような智慧を蓄えながらも、外には寡黙にして、深く測り知れない存在であるべきなのです。

『易経』もこう説いています――『未熟な蒙(もう)の段階でこそ、正しき心を養え』、また『明(めい)を隠して衆に臨め』。もし天子が自らの聡明さを誇って人を見下し、その才知で人々を圧倒し、誤りを指摘されることを嫌うようになれば、上と下の心は離れ、君臣の関係は崩れていきます。歴代の王朝が滅びた理由は、皆そこにあるのです。

太宗はこれを聞き、深く同意した。

「『易経』にもこうある――『功績を挙げながら謙虚な君子は、必ず吉を得る』と。まったく卿の言うとおりである」と言い、孔穎達に絹二百疋を下賜した。


■注釈

  • 「以能問於不能」:『論語』泰伯篇より。才ある者が無才の者に学ぶ姿勢を称賛。
  • 孔穎達(こうえいたつ):隋・唐初の儒学者。『五経正義』などの編纂に関わり、『貞観政要』にもしばしば登場。
  • 「以明夷莅衆」:『易経』明夷の象伝。「君子は聡明を隠して民に臨むべし」の意味。
  • 「功あれど謙の君子は、吉なり」:『易経』謙卦の爻辞。謙虚な者は最終的に吉運を得るとする。
  • 「蒙養正」:「蒙」は未熟な状態を指し、「その段階で正義を養え」という教え。

■解説

この章では、**「能力がある者ほど謙虚にふるまうべし」**という思想が深く説かれています。

孔穎達の説明は、君子道の本質を押さえたもので、**“才あって無きが如く、満ちて虚しきが如し”**という「空の器」のような態度こそが、帝王の風格であると語っています。真に有能な者は、自己を飾らず、他に学ぶ姿勢を崩さない。これが周囲の敬愛を集め、国の安定にもつながる。

太宗は孔穎達の言を聴き、まさにその通りだと賛同して褒美を与えます。ここには、謙虚さを持つ者が最後には勝利するという儒教的価値観が明確に現れています。


■心得文(要約的な教訓)

「有能なる者ほど虚心であれ」

真の賢者は、己の才を誇らず、無能の者にさえ学びを求める。才を有しながらも、あたかも無才のように、実力を持ちながらも空の器のように、常に謙虚に臨む。これは民に仕える帝王にも必要な徳である。才をもって人を凌ぎ、誤りを憚るならば、君と臣、上と下との心は乖離し、ついには滅亡を招く。光を内に収め、言を慎み、己を低くして人を敬う。これこそ、君子の慎みである。

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