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第二章「漢の文帝に学べ」解説

◆ 現代語訳

貞観二年(628年)、王公・大臣たちが太宗に上奏した。

「『礼記』には、夏の終わり(旧暦の季夏=6月)には暑気を避けて高い建物に住むべしとあります。今はちょうど夏の残暑が厳しく、秋の長雨も始まり、宮中は低地にあるため湿気が多くてお体に障ります。つきましては、どうか高い楼閣を新築して、そちらでお暮らしいただきたく存じます」。

これに対して、太宗は次のように答えた。

「私は気の病(体質的な虚弱や疾患)を抱えており、湿気の多い環境は確かに体によくない。しかし、この要望どおりに高楼を築けば、多大な出費が必要となる。

昔、漢の文帝は露台(高楼)を建てようとしたが、その費用が家十軒分の資産に相当すると聞いて取りやめたという。私の徳は、文帝には到底及ばない。なのに、その文帝よりも大きな浪費をしてしまったならば、私は果たして『人民の父母』と呼ばれる皇帝としての道にふさわしいといえるであろうか」。

王公たちは再三再四お願いしたが、太宗は最後まで許可を出さなかった。


◆ 注釈と背景

  • 『礼記』季夏の居処:『礼記』の「月令」篇には、季節ごとの養生法や官職の動きが記されている。夏の終わりは湿気が多く、台榭(高台や高殿)に住むことが望ましいとされていた。
  • 漢の文帝:前漢第5代皇帝。倹約政治を徹底し、贅沢を嫌ったことで知られる。『漢書』によれば、露台を建てようとして十家分の富がかかると知り、その計画をやめた。
  • 十家の産:庶民の10軒分の家産。非常に大きな財産であることを示し、皇帝であってもその支出を「惜しむ」べき対象として捉えていた文帝の姿勢が際立つ。

目次

第二章から導かれる「心得」

◉ 節倹は徳の尺度

政治における節倹は、単なる経費削減ではなく、「君主の徳を計るものさし」である。太宗は「自分の徳は文帝に劣る」と謙虚に自己認識を行い、倹約によってこそ民への信頼と尊敬が得られると考えた。

◉ 「健康」と「贅沢」は別問題

身体に不調があることを理由に宮殿の増築を求められても、それを拒否する姿勢から、「個人の快適さより、国家全体の支出節減を優先」する政治哲学が読み取れる。

◉ 公金の扱いは常に「民の財」と自覚せよ

支出をめぐる判断において、太宗は一貫して「これは自分の金ではなく民の金である」という立場を取っている。漢の文帝の例を引くことで、歴史の範を今に活かし、王道政治の正統性を担保している。

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