現代語訳
貞観元年(627年)のこと。吏部尚書・長孫無忌が宮中に召された際、うっかり佩刀を外すのを忘れたまま太極殿の門(東上閣門)を通過してしまった。彼が門を出たとき、ようやく門番の監門校尉がその事実に気づいた。
尚書右僕射の封徳彝は、「監門校尉は注意義務を怠った重大な過失であり、死罪に相当する。長孫無忌の佩刀持参は過失とはいえ、徒刑二年(労働刑)または罰銅二十斤にあたる」と主張した。太宗はこれに同意しようとした。
しかし、大理少卿の戴冑はこれに反論した。
「監門校尉が見落としたのも、長孫無忌が佩刀したまま参内したのも、いずれも過失である点で同じです。臣下というものは、皇帝に対して『うっかりしていました』という言い訳は許されません。
律令には『天子に供する飲食や薬、舟などで法を逸すれば、たとえ過失でも死罪』とあるのです。もし無忌の功績を考慮されるなら、それは陛下の恩赦であり、司法の判断ではありません。しかし、法に基づく判断であるなら、軽い罰金で済ませるのは筋が通りません。」
太宗は、
「法とは私個人のものではなく、天下万民のものである。たとえ長孫無忌が皇族の一員でも、法を曲げることはできない」
と述べ、再審議を命じた。
封徳彝は最初の意見を変えなかったので、太宗はそれに従おうとした。だが、戴冑はさらにこう述べた。
「監門校尉の罪は、無忌の過失の延長に過ぎません。従って法的には軽いものであるべきです。両者とも過失という点では等しいのに、一方を死罪にしてしまうのは、あまりにも不公平です。どうかその点を再考いただきたい。」
太宗はこれを受け入れ、監門校尉の死罪を免じた。
またこの頃、朝廷では官僚登用が活発に行われていたが、身分詐称が相次いだ。太宗は「自首しなければ死罪」とする詔を出した。しばらくして、詐称が発覚した者が現れたが、戴冑は律に基づき「流罪」(遠隔地への追放刑)と断じた。
太宗は怒って言った。
「私は詔勅で死刑としたのに、今さら律に基づいて軽い刑にすれば、私の言葉は天下に信用されなくなるではないか。」
それに対して戴冑は毅然と答えた。
「もし陛下がその場で死罪を実行されるのであれば、私には何も申し上げることはありません。しかし、司法に判断を委ねられた今、私は法を曲げるわけには参りません。
法とは国家が天下に示す最大の信用であり、言葉は一時の感情から出るものにすぎません。たとえ陛下が怒りに任せて死罪と命じられたとしても、その後に法に従うことが正しいと気づかれ、それに従うのであれば、それは“小さな怒りを抑えて、大きな信義を守った”ということになります。」
太宗はこれを聞いて、
「私が法に背いたときは、そなたが正してくれる。ならば何も心配はいらない」
と述べ、深く納得した。
注釈と背景
- 佩刀の参内:武器を帯びたまま宮中に入るのは重大な禁令違反であり、国家転覆の企てともみなされかねない行為。
- 過失犯:過失であっても、皇帝に関わる場面では重罪とされる傾向が強かった。
- 詐称と流罪:本来は流罪にあたる程度の軽犯罪であるが、皇帝の命令によって重罪に変わりかねないのが当時の政治的現実。
- 戴冑の姿勢:法を絶対とし、皇帝の感情的な判断にも抗して堂々と主張する態度は、極めてまれである。
心得
この章は、公正な統治において **「法」と「皇帝権限」**がどう調和すべきかを問う、極めて重要な事例を提示しています。
1. 法治主義と皇帝権の対立
皇帝が法を超越する存在であっても、感情や私情で司法に介入すれば、「統治の信義」が揺らぐ。
戴冑の姿勢は、**「皇帝の権威よりも、法の公正性が国家の根本である」**という信念に基づいています。
2. 過失への冷静な対応
過失は人間である限り避けられませんが、その処罰は情や立場ではなく、一貫した基準と制度に基づくべきです。さもなければ、法は「力ある者の武器」となってしまいます。
3. 信義とは感情を超えた継続的な誠実さ
皇帝の一時の言葉よりも、**国家として公布された法律こそが「最大の信義」**であると戴冑は説きます。これは今日の民主主義社会においても十分通用する倫理観です。
まとめ
本章が教える最大の教訓は:
「国家における真の公平とは、権力者の気まぐれを制御できる仕組みによって守られる」
ということです。
戴冑のような法官がいたからこそ、太宗の統治は「貞観の治」と称される名君政治になり得たとも言えるでしょう。
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