第二章 兵は火のようなもの
現代語訳
貞観元年(627年)のこと。ある者が封書を用いて上奏した内容は次のようであった。
「もと秦王府に属していた兵士たち全員に武官の地位を授け、宮中の警護にあたる兵士として採用してほしい。」
それを受けて、太宗(李世民)はこう述べた。
「私は天下を私有物と見なしてはおらず、あくまでも公のものとして捉えている。ゆえに、どんなに小さな事柄であっても、私的な感情で取り扱うことはできない。官職の授与は、ただその人物の能力と人格によって判断するべきであり、古くからの付き合いかどうかで優劣をつけるべきではない。
それに、昔から『兵は火のようなものだ。きちんと制御しなければ、いずれ自分自身を焼き尽くしてしまう』と言われている。今、そなたのそのような考え方は、政治を正しく行ううえでまったく益になるものではない。」
注釈と背景
- 上封事:皇帝に直接意見を上奏できる制度。匿名で提出することもあった。
- 秦王府の旧兵:太宗が皇帝になる前、秦王であった時に自らの幕下に抱えていた兵士のこと。
- 「兵は火なり」:古代中国の兵法の格言で、兵力というものは慎重に扱わなければ危険を招く、という戒め。『左伝』『孫子』などでも類似の表現が見られる。
- 入宿衛(じゅくえい):宮廷警護を担当すること。兵の中でもとくに信頼された者が任じられた。
心得
この章では、人事と軍事の私物化を戒める太宗の姿勢が明確に示されています。
1. 任用の原則は「公正」
「昔からの付き合い」「忠義を尽くした過去」などの個人的要因は、あくまで参考にすぎず、官職の授与は能力と実績に基づくべきだという厳格なスタンスを取っています。これは今日の人事評価や昇進制度にも通じる原理です。
2. 兵は制御すべき力であり、恩賞の道具ではない
兵士を感情で優遇したり、報酬として武官職を濫発すれば、軍の規律が崩れ、いずれ国政をも危うくするという強い危機意識が見られます。軍備や治安組織への任命は、政治的バランスと国家安定に直結するため、慎重でなければならないのです。
3. 「天下をわが家とす」と「天下を私す」との違い
太宗は「天下を自分の家として治める」と言いながら、「私的に扱うことはない」とも述べています。これは「天下を預かる責任者として誠実に向き合う」ことと、「私物化して好き勝手に使う」こととの重大な区別を明示した言葉です。
まとめ
「忠功を立てた者には恩賞を、しかしその恩賞も公の基準で」
これは本章の核心です。
功績に報いることは必要である一方で、その報いが公正を逸脱してしまえば、組織全体の信頼と秩序が崩れる。
太宗のこの判断は、リーダーにとって最も難しい「公と私」の境界線の見極めに対して、明確な基準を示したものです。
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