第四章「行幸はやめるべし」は、統治者の私的欲望と公共的責任のせめぎ合いをテーマとした逸話です。ここでは、天子の権威と贅沢、そして進言の意義が短いながらも濃密に描かれています。
要点と要約
背景
貞観七年(633年)、太宗は避暑地である九成宮への行幸(外出)を計画していました。これは皇帝が政務を離れて地方の離宮へ赴くもので、一種の私的快楽や贅沢とも取られがちな行為です。
進言者:姚思廉の諫め
進言をしたのは姚思廉(よう・しれん)。彼は散騎常侍という、政治是正のために皇帝に直言する立場にある門下省の官僚でした。
彼の主張は次のように要約できます:
- 君主は人の欲を汲むべきであり、自らの欲望を人民に押し付けるべきではない。
- 離宮への行幸は秦の始皇帝や漢の武帝のような専横的君主が行ったことであり、理想の聖君(堯舜禹湯)には見られない。
- 皇帝は「万民の上」に立つ者である以上、自らに厳しくあらねばならないという戒めです。
太宗の反応
太宗はこの進言を受け入れ、以下のように返しました:
- 行幸の理由は**持病(暑さによる発作)**のためであり、単なる快楽のためではない。
- しかし、姚思廉の進言は真心からのものと認め、感謝して褒美を与える(絹五十疋)。
教訓と意味
1. 権力と贅沢の距離
姚思廉は、「離宮への行幸」を贅沢の象徴とみなし、それを古の聖君と暴君の対比を用いて諫めています。これは、為政者の行動一つひとつが天下の道徳や国政の方向を左右することを強く意識しているからです。
離宮はただの外出ではなく、政治的象徴でもある。
2. 君主の反省と聞く耳
太宗の対応は、一見正当な理由(病気)を主張しつつも、進言に誠実に耳を傾けている点が重要です。ここでは二つの姿勢が読み取れます:
- 自己正当化に留まらない謙虚さ
- 批判をも進言として賞賛する度量
これはまさに、「明君たる太宗」の姿勢を象徴しています。
3. 褒美という文化的含意
姚思廉の進言は、直接皇帝の行動を諫めるものであり、内容としては批判的です。それにもかかわらず太宗が褒美を与えたのは、「直言こそが国家の礎である」という思想の表れです。
文学的・政治的価値
この逸話は非常に短いながらも、以下の三つの価値を併せ持っています:
- 道徳教育的価値:君主の節制と臣下の進言の重要性を、モデルケースとして提示。
- 統治思想の具現:人治と徳治の理想が、太宗と姚思廉のやりとりの中に自然に表現されている。
- 史的類型の使用:堯舜禹湯 vs 秦皇・漢武という、東アジア思想史の中で象徴的な対立構図を通じて、読者に強い印象を残す。
結論
この章は、為政者にとっての「節度」と「聞く耳を持つこと」の重要性を端的に表現した実話です。
姚思廉は、九成宮への行幸という「皇帝の自由意志」に対し、歴史と道義をもって真正面から諫言します。太宗はこれを怒ることなく受け入れ、真摯に答え、褒美すら与えるという寛容さを見せました。
このやり取りそのものが、「政治における理想的な君臣関係」の一つの到達点として評価されるべきものです。
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