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第十四章  貞観の治

太宗が即位した当初、国内では霜害や旱害が発生し、米穀の価格が高騰しました。その上、突厥(テュルク民族)が侵入し、各地の州や県は混乱していました。太宗は人民の安寧を心から憂い、政治に精力を注ぎました。倹約を尊び、大いに恩徳を施し、人民を保護しました。

その時、都から河東道(山西省)、河南道(河南省・山東省)、隴右道(甘粛省)に至る一帯は特にひどい飢饉に見舞われ、絹一匹で米一斗がわずかに手に入るような状況でした。人々は東西に食料を求めて移動しましたが、それでも怨嗟の声は上がらず、民衆は安らかに過ごしていました。

貞観三年(629年)、長安一帯の関中地方が豊作となり、民衆は自然と故郷に帰り、誰一人として他の地に逃げる者はありませんでした。太宗は、民心をしっかりと掴んでいたことがわかります。

また、太宗は儒学を好み、賢い人物を求めて官職に任命しました。古い弊害を改革し、緩んだ制度を整備しました。何事も一つを改善することで他の関連するものも改善しようと努めました。

初め、太宗の兄である皇太子李建成や弟の斉王李元吉の配下に復讐を誓う者が数百人から千人もいました。しかし、玄武門の変が収束した後、太宗はこれらの者を引き入れて側近として扱いました。太宗はそのような心の広さを持ち、ためらいなく決断を下しました。その結果、世論は「帝王としての風格を身に付けた皇帝」と評価しました。

太宗は官吏の汚職を憎み、賄賂を受け取る者を許さず、下級官吏でも収賄を行った者は必ず報告させ、罪を犯した者には厳罰を科しました。そのため、官吏たちは自然と清廉となり、腐敗が減少しました。

また、太宗は王族や公族、後宮、そして豪族など、力を持つ者たちを取り締まりました。これらの者は太宗の威光を恐れ、姿をくらませ、貧しい民が騙されて奪われることはなくなりました。商人たちが野宿しても盗賊に襲われることはなく、牢獄は常に空っぽで、馬や牛が野に広がり、民は外出する際に戸締まりさえしませんでした。

また、豊年が続き、米一斗はわずか三、四銭で購入でき、旅行者は食糧を持参せずに路上で賄い、村落では通りすがりの旅行者を手厚くもてなすなど、かつてないほどの豊かさが広がりました。


解説

この章では、太宗の治世がいかに成功を収め、人民の心をつかんでいたかが強調されています。太宗は、厳しい飢饉や突厥の侵略といった困難な状況下でも、政治を安定させ、人民を保護するために精力的に努めました。彼の政治は、ただ単に政策を施すだけでなく、倹約と恩徳を重要視し、官吏の清廉性を保ち、社会全体の秩序を保ちました。

特に、民衆に対しては厳しい統治を行いながらも、飢饉に見舞われた地域では怨嗟の声が上がることなく、人民が安らかに暮らせるような社会を築き上げました。このような結果は、太宗が常に自らを抑制し、清廉であろうと努め、臣下の忠告を受け入れ、賢明な人材を登用したからこそ実現できたものです。

1. 原文

太宗、自ら即位の始めより、霜と旱魃の災いが起こり、米穀は高騰し、突厥は辺境を脅かし、州県は騒然たる有様であった。
帝は人々の憂いを案じて政治に励み、節倹を尊び、恩徳を広く施した。
当時、京師から河東・河南・隴右に至るまで飢饉がひどく、絹一匹で米一斗しか得られなかった。
百姓は東西に食を求めながらも、怨嗟することなく、むしろ自らを安んじた。
貞観三年には関中が豊作となり、皆が自らの郷里に帰り、一人として流亡者はいなかった。
そのように民心を得ていたのである。
さらに諫言をよく受け入れ、儒学を愛し、人材を求めてやまず、官職の適材適所を重視し、旧弊を改め、制度を興し復した。
一事をきっかけに善政を広げていった。

初め、息隠・海陵の党に属して太宗と謀反を計画した者が数百千人いたが、
その後、彼らを赦して側近に引き入れ、疑いも差し障りもなく仕えさせた。
世間はこれを見て、「大事を断じることができ、真に帝王の体を得た」と称した。

太宗は、官吏の貪欲・腐敗を強く憎み、法を曲げて財を受け取る者には赦免を与えず、
都内・地方に関わらず、犯贓の者は皆すぐに奏上され、その罪に応じて厳罰に処された。
これにより官吏は慎みをもって職に臨むようになった。

王公・妃主の家や、大姓・権門も太宗の威を畏れ、不正を働く者はいなかった。
商人や野の民は、盗賊の心配もなく、牢獄は空っぽで、馬や牛が野に放たれ、門扉も閉じられることなく、
豊作が続き、米は一斗三四銭という安値であった。

京城から嶺南、山東から東海に至るまで、人々は旅に出ても食料を持たずに済み、道中で補給を受けることができた。
山東の村々でも旅人が通れば厚くもてなし、ときに贈り物をすることもあった。
これはまさに古来かつてなかったことである。


2. 書き下し文

太宗、即位の始めより、霜旱災いをなし、米穀踊りて貴く、突厥擾いを為し、州県騒然たり。
帝、人を憂うるを志とし、政を為すに勤め、節倹を崇び、恩徳を大いに布けり。
是の時、京師より河東・河南・隴右に至るまで、饑饉いよいよ甚だしく、
一匹の絹、僅かに一斗の米を得るのみ。
百姓は東西に糧を求めつつも、怨嗟すること無く、みな自らを安んず。
貞観三年に至り、関中豊熟し、咸(ことごと)く自ら郷に帰り、ついに一人も流散する者無し。
其の人心を得ること、この如し。

加うるに、諫を聞くに流の如く、雅に儒を好み、孜孜として士を求め、官を擇ぶに務め、旧弊を改め、制度を興し復す。
常に一事を以て、類に触れて善を為す。

初め、息隠・海陵の党、同じく太宗に謀る者、数百千人あり。
事成りて後、復たこれを左右に引きて侍らしむ。心に然る無し、疑阻すること無し。
時の論、以て大事を断決する能あり、帝王の体を得たりと為す。

深く官吏の貪濁を悪み、法を枉げて財を受くる者には、必ず赦免無し。
京中・外州に於いて、贓を犯す者あらば、皆執りて奏し、その罪に随いて重法に処す。
これに因りて官吏、みな自ら慎む。

王公・妃主の家、大姓・豪猾の伍(たぐい)、みな威を畏れて跡を屏し、あえて細人を欺くこと無し。
商販・野人、盗賊に復た遭わず、囹圄常に空しく、馬牛は野に布け、外戸も閉ざさず。

また頻りに豊稔を致し、米は斗三四銭。
行人、京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るも、糧を携えずして路に給し、
山東の村落に入り、旅人の経る者あらば、必ず厚く供待し、或いは時に贈り物を発す。
此れ皆、古昔未曾有なり。

3. 現代語訳(逐語)

  • 「太宗、自ら即位の始めより、霜と旱魃の災いが起こり…」
     → 太宗が即位した当初は、霜害や干ばつなどの天災が続き、
  • 「米穀踴貴、突厥擾、州縣騷然」
     → 米の値段が高騰し、突厥が侵入して各地の州県は騒がしかった。
  • 「帝志在憂人、躬親爲政、崇尚節儉、大布恩德」
     → 皇帝は民の苦しみを第一に考え、自ら政治に取り組み、節約を重んじ、広く恩徳を施した。
  • 「京師から河東・河南・隴右に至るまで、飢饉尤甚」
     → 首都周辺から黄河流域、さらに西部地方に至るまで、特に飢饉が深刻だった。
  • 「一匹絹纔得一斗米」
     → 絹一反でようやく米一斗が得られるほどの物価高だった。
  • 「百姓雖東西求食、未嘗嗟怨、莫不自安」
     → 民は食糧を求めて東西に移動したが、不平を言う者はなく、皆がそれを当然として耐えた。
  • 「貞観三年、關中豐熟、咸自歸鄕、竟無一人流散」
     → 貞観三年には豊作となり、民はそれぞれ郷里に戻り、一人として流浪の民はいなかった。
  • 「從諫如流、雅好儒術、孜孜求士、務在擇官、改革舊弊、興復制度」
     → 諫言をすぐに受け入れ、儒学を愛好し、賢才を求めて努力し、官職を適材適所に選び、古い悪習を改め、制度を再興した。
  • 「毎因一事、觸類爲善」
     → 一つの事例から学び、それを応用して善政を広げていった。
  • 「息隠・海陵の党…太宗と謀反した者も…赦して仕えさせた」
     → 反乱に関与した者たちさえも赦し、疑いもなく側近として登用した。
  • 「官吏の貪濁…必無赦免」
     → 腐敗官吏は厳罰に処され、例外は認められなかった。
  • 「商販・野人…盗賊無く、囹圄常空、馬牛布野、外戸不閉」
     → 商人や農民も安心して暮らせるようになり、牢獄は空で、家の門さえ閉じる必要がなかった。
  • 「米斗三四銭」
     → 米の値段も一斗三〜四銭という非常な安値になった。
  • 「行人自京師至嶺表…皆不賚粮、取給於路」
     → 都から遠方の辺境までの旅にも、携行食料は不要で、途中で十分に補給を受けられた。
  • 「山東の村落…旅人経る者には厚く供待…或時贈与あり」
     → 村の人々は旅人をもてなし、ときには贈り物まで渡していた。

4. 用語解説

  • 霜旱(そうかん):霜害や干ばつの意。農業への深刻な打撃を表す。
  • 節儉(せっけん):質素・倹約を旨とする政治姿勢。
  • 恩德(おんとく):民に対する慈悲と恩恵。太宗の信頼政策の中核。
  • 從諫如流(じゅうかんじょりゅう):諫言を水が流れるように素直に受け入れること。
  • 觸類(しょくるい):ある一つの出来事から類推して他にも応用・拡張すること。
  • 貪濁(たんだく):私欲まみれで清廉でない政治姿勢・官吏のこと。
  • 囹圄(れいご):牢獄の意。
  • 外戸不閉(がいこふへい):門戸を施錠しなくても安心できる治安状態の象徴。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

太宗が皇帝に即位した当初、中国は天災や飢饉、突厥の侵攻などで混乱していた。しかし太宗は自ら政務に励み、節約と恩徳による統治を行った。飢饉が広がる中でも、民は不平を言わずに耐えた。貞観三年には大豊作があり、流浪した民も皆故郷に帰り、治安も極めて良くなった。

また、太宗は諫言をよく聞き、賢人を積極的に登用し、制度改革に努めた。かつての反乱者さえも赦して登用する寛容な姿勢を見せた一方、腐敗官僚には厳罰で臨み、民からの信頼を得た。その結果、治安は安定し、人々は旅の途中で他人から食事の施しを受けられるほど、世の中は平和となった。


6. 解釈と現代的意義

この章句は、国家の混乱期における指導者の在り方と、政治の基本原則を非常に的確に示しています。

  • 信頼と寛容、そして厳格さのバランスがリーダーの資質として求められ、
  • 民の声を聞き、制度を整え、人材を正しく活かすことこそが安定と繁栄をもたらすという統治哲学が込められています。
  • 「上が清ければ下も清し」の好循環を作るには、リーダー自らが手本を示す必要があるという教訓でもあります。

7. ビジネスにおける解釈と適用

  • 「経営者の清廉は、組織の風通しと健全性を生む」
     社長やリーダーが率先して節度と誠実さを守ることで、社員もそれに倣い、不正や怠慢を排除できる。
  • 「適材適所と抜擢の勇気」
     過去の過ちに囚われず、才能ある者を見抜いて登用する度量は、組織の成長エンジンとなる。
  • 「フィードバックを歓迎する文化が信頼を築く」
     下からの意見を素直に聞き入れる姿勢が、現場力の向上と顧客満足を生む。
  • 「健全な組織では、誰もが安心して行動できる」
     治安の良さ=心理的安全性。これは人材の定着や能力発揮にも直結する。

8. ビジネス用の心得タイトル

「信なくして治まらず──寛容と厳格がつくる黄金の組織」


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