貞観七年(633年)、太宗は魏徴とともに古来の政治の良し悪しについて話し合っていました。太宗は言いました、「今は隋末の大乱の後なので、すぐには治まった世を作ることはできないだろう」と。しかし、魏徴はこう答えました。「そうではありません。およそ人は命の危険を感じた時に死ぬ心配をし、そのため平安な世を望みます。平安を望む心があれば、人民は治めやすいものです。乱れた時代の後が治めやすいのは、飢えた人が何でも食べるように、平穏な時を望むからです」と。
太宗はその答えに疑問を持ち、「百年間、善人が国を治め、ようやく残虐な世が終わるという。しかし、どうしてそれをすぐに作り上げることができようか?」と問いかけました。魏徴は答えました。「それは平凡な人々の統治を指しています。しかし、聖哲な人が治める場合、上下が心を一つにすれば、人民はすぐに応じ、すぐに平穏を取り戻すことができます。特に急がなくても、あっという間に治まります。三年かかればそれでも遅いくらいです」と。
太宗はその考えに賛同し、魏徴の意見を聞き入れました。封徳彝などの臣下たちは異論を唱えました。「夏・殷・周の三代以降、人民は次第に軽薄になり、だからこそ秦は厳しい法律を使い、漢は武力を用いました。それらはすべて、人民を教化しようとした結果です。もし魏徴の考えを信じれば、国を混乱させることになります」と。しかし、魏徴はこれに反論しました。「古の五帝や三王は、人民をすっかり入れ替えることなく治めました。帝道を行えば帝として、王道を行えば王として治めることができます。これについては昔の書籍を読んでいけばよくわかります。例えば、黄帝は蚩尤と七十回も戦い、その後、太平を築きました。同じように、顓頊は九黎を征伐し、夏の桀王を湯王が討ち、紂王を武王が討った後、それぞれの時代に太平の世が築かれました。もし人が軽薄になり、元の純朴な心に戻れないのであれば、今の時代にはすでに魑魅魍魎が満ちているはずです。そんな者たちをどうして治めることができるのでしょうか」と。
太宗は魏徴の意見に賛同し、彼の助言に従って努力を続けました。数年後、国内は安寧となり、北方の遊牧民族である突厥は滅ぼされ、太宗は群臣に向かって言いました。「貞観の初め、みな私が古の帝道や王道を実行することに反対しましたが、ただ一人、魏徴だけが私にそれを勧めました。その言葉に従ってみたところ、数年もたたないうちに、華夏は安寧となり、遠くの異民族までも服従しました。特に突厥は古くから中国にとって強敵でしたが、今ではその族長たちが宮中の警護をし、その部族は中国の衣冠を着ています。これはすべて魏徴の力によるものです」と。
太宗はさらに言いました。「玉は美しい素質を持っていますが、石に混じっているだけでは、良い工匠に磨かれない限り、瓦や小石と区別がつきません。良い工匠に出会えれば、玉は永遠に宝物として輝きます。私の美しい素質は魏徴によって磨かれ、私を仁義で引き締め、道徳で大きくしてくれました。魏徴の苦労のおかげで、私の功業はここにまで達しました。汝もまた、腕の良い工匠に十分である」と感謝の意を示しました。
原文とふりがな付き引用
「貞觀七年、太宗(たいそう)與(とも)祕書監(ひしょかん)魏徵(ぎちょう)從容(しょうよう)論(ろん)自古(じこ)理政(りせい)得失(とくしつ)。因(よ)って曰(い)く、「當今(とうきん)大亂(だいらん)の後(のち)、不可(ふか)致(な)る」と。」
「徵(ちょう)曰(い)く、「不然(いえなり)、凡(およ)そ人在(ひと)危困(きこん)に、則(すなわ)ち憂死(ゆうし)を思(おも)う。憂死(ゆうし)を思えば、則ち思平安(へいあん)を思う。思平安(へいあん)を思えば、則ち易(やす)きなり。」」
注釈
- 帝道と王道…帝道は、帝王の徳と理をもって治める道、王道は、王として民を統治する方法を指す。これらは、時代によって必要とされる支配方法が異なることを示している。
- 魏徴の意見…魏徴は、特に急ぐことなく、上下の心が一つになれば、数年以内に平穏な時代を作り上げることができると考えた。
- 「君は舟、人は水なり」…これは、君主が舟であり、民はその水であるという例えで、君主と民の関係を表現している。水が舟を運ぶことも、また逆に舟を覆すこともあるという警告です。
『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より
1. 原文
貞觀七年、太宗與祕書監魏徵從容論自古理政得失。因曰、「當今大亂之後、不可致理。」
徵曰、「不然。凡人在危困、則憂死;憂死、則思治;思治、則易理。然則亂後易治、人易食也。」
太宗曰、「善人爲邦百年、然後殘去殺。大亂之後、將求致理、豈可得哉。」
徵曰、「此據常人、不在英哲。若英哲施政、上下同心、人應如響。不疾而速、朞月而可、信不為難。三年之功、猶謂其晚。」
太宗以爲然。
封德彝等對曰、「三代以後、人漸澆訛、故秦任法律、漢雜霸道、皆欲治而不能、豈能治而不欲。若信魏徵之言、將敗亂國家。」
徵曰、「五帝三王、不易人而能治。行帝道則帝、行王道則王。在於當時之理耳。考之載籍、可得而知。昔黃帝與蚩尤七十餘戰、其亂甚矣。然克之後、便致太平。九黎亂德、顓頊征之、旣克之後、不失其道。桀爲亂君、而湯放之。在湯之代、即致太平。紂爲無道、武王伐之。武王之代、亦致太平。若言人漸澆訛、不復純樸、至今應悉爲鬼魅。人情可復得而理也。」
德彝等無以難之。然咸以爲不可。
太宗每力行不倦。數年間、海內康平、突厥破滅。因謂羣臣曰、「貞觀初、人皆異論、云當今必不可行帝王之道。惟魏徵勸我。朕從其言、不數載、遂得華夏安寧、戎狄賓服。突厥自古以來、常爲中國勍敵。今酋長並帶刀宿衛、部落皆襲衣冠。使我成功至於此、皆魏徵之力也。」
又謂徵曰、「玉雖有美質、在於石間、不値良工琢磨、與瓦礫不別。若遇良工、即爲萬代之寶。朕雖無美質、爲公所切磋。勞公誨我以仁義、弘我以道德、使朕功業至此、公亦足爲良工爾。」
2. 書き下し文
貞観七年、太宗、秘書監の魏徵と從容として自古の理政の得失を論ず。因りて曰く、
「当今は大乱の後にして、理(おさ)むるを致すべからず。」
徵曰く、
「然らず。凡そ人、危困に在れば、則ち死を憂う。死を憂えば、則ち治を思う。治を思えば、則ち理に易(やす)し。然らば則ち、乱の後は治め易く、人を食(やしな)うに易し。」
太宗曰く、
「善人、邦を為して百年にして、然る後に殘忍・殺戮を去る。大乱の後にして、将に理を致さんと欲す。豈に得べけんや。」
徵曰く、
「此れ常人に拠る。英哲に在らず。若し英哲、政を施さば、上下心を同じくし、人、響に応ずるが如し。疾(と)からずして速く、朞月(ひとつき)にして可なり。信じて難きにあらず。三年の功も、猶お其れ晩しと謂う。」
太宗、以て然りと為す。
封德彝等、對(こた)えて曰く、
「三代の後、人、漸く澆訛(ぎょうか)し、故に秦は法律を任じ、漢は覇道を雑(ま)ぜ、皆、治めんと欲して能わず。豈に治むるを能くして欲せざらんや。若し魏徵の言を信ずれば、将に国家を敗乱せん。」
徵曰く、
「五帝・三王、人を易えずして能く治む。帝道を行えば則ち帝、王道を行えば則ち王なり。当時の理に在るのみ。載籍(書物)を考うれば、得て知るべし。昔、黄帝、蚩尤と七十余戦し、其の乱甚し。然れども之を克して後、すなわち太平を致す。九黎、徳を乱し、顓頊之を征し、既に之を克して後、其の道を失わず。桀、乱君たりしも、湯之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致す。紂、無道たり、武王之を伐つ。武王の代、亦太平を致す。もし人、漸く澆訛し、復た純朴ならずといわば、今に至るまで悉く鬼魅たるべし。人情、復た理むべし。」
德彝等、以て難ずる無し。然れども咸(みな)以て不可と為す。
太宗、毎に力行して倦まず。数年の間に、海内康平、突厥破滅す。因りて群臣に謂いて曰く、
「貞観の初、人、皆異論し、今の世にして必ず帝王の道を行うべからずと云う。惟だ魏徵のみ我を勸む。我、其の言に従い、数載を出でずして、遂に華夏安寧を得、戎狄賓服す。突厥は古より中国の勍敵なり。今、酋長、皆刀を帯して宿衛に仕え、部落、皆衣冠を襲う。我をして此の成を致さしむる、皆魏徵の力なり。」
又、徵に謂いて曰く、
「玉、たとい美質ありといえども、石間に在りて、良工に琢磨せられざれば、瓦礫と別なし。若し良工に遇えば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無きといえども、公の切磋する所たり。公、我をして仁義を以て誨え、道徳を以て弘め、朕をして功業、此に至らしむ。公、亦良工と為すに足るなり。」
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