貞観二年(628年)、太宗は黄門侍郎(門下省副長官)の王珪に尋ねました。「最近、君臣が国を治める方法が、昔より劣っていることが多いのはなぜだろうか」と。
王珪は答えて言いました。「昔の帝王は、政治を行う際、すべて志を静謐に保ち、人民の心を自分の心として治めました。しかし、近ごろの帝王たちは、ただ人民を苦しめて自分の欲望を満たすことばかりを考え、その任用する大臣たちも、儒学に通じた者ではありませんでした。漢の時代の宰相たちは、必ず一つの経典に精通していました。そして、朝廷で政治に関する問題が起こると、必ず経典の教えを引用して解決していました。そのため、人々は礼を知り、太平の世が現れることができました。しかし、最近では、武力を重視し、儒学を軽視する傾向が強く、ある者は厳しい法律で取り締まりを行い、儒教の教えや礼儀は忘れ去られ、純朴な風習は完全に失われてしまいました。」
太宗は王珪の言葉に深く賛同し、その後、学業に優れ、政治の本質をよく理解している官僚がいれば、その多くを抜擢し、官位を進めていきました。
原文とふりがな付き引用
「貞觀二年(ていかん にねん)、太宗(たいそう)は黃門侍郎(こうもん しろう)王珪(おう けい)に曰(い)く、『代(よ)い君臣(くんしん)治(ち)国(こく)、多(おお)く劣(おと)る於(よ)古(いにしえ)、何(なに)也(なり)』」
「對(こた)え曰(いわ)く、『古(いにしえ)の帝王(ていおう)為政(いせい)するに、皆(みな)志(こころざし)静(しず)かにして、百姓(ひゃくせい)の心(こころ)を為(な)す』」
「代(だい)則(すなわ)ち唯(ただ)百姓(ひゃくせい)を損(そこ)ねてその欲(よく)を成(な)し、大臣(だいじん)を任(にん)用(よう)するも、復(また)経(けい)に通じた士(もの)にあらず。漢家(かんけ)の宰相(さいしょう)、無(な)きこと無(な)し一経(いっけい)に通じ、廷(てい)に疑事(ぎじ)あれば、皆(みな)経(けい)を引(ひ)きて決定(けってい)す。由(これ)を以(も)って人(ひと)識(しき)り礼(れい)を知り、治(おさ)めて太平(たいへい)を致(いた)す』」
「代(だい)重(おも)んじて武(ぶ)を軽(かろ)んじ、儒(じゅ)を軽(かろ)んじ、或(あるい)は法律(ほうりつ)を参(まじ)え、儒行(じゅこう)を亏(おか)し、淳風(じゅんぷう)大(おお)きく壊(やぶ)れたり』」
「太宗(たいそう)は深(ふか)く然(しん)じてその言(ことば)に従(したが)う。自(よ)より此(これ)より百官(ひゃっかん)中(ちゅう)に学業(がくぎょう)優(すぐ)れ、識政体(しきせいたい)を知る者(もの)があれば、多(おお)くその階品(かいひん)を進(すす)め、累(るい)加(くわ)え擢(だ)てし』(しゅうせい)」
注釈
- 志静謐(ししんひつ)…静かで落ち着いた心を持ち、人民の心を理解し尊重すること。
- 儒学(じゅがく)…古代中国の学問体系。社会の秩序を保つための教えとして重要視される。
- 経典(けいてん)…儒学をはじめとする重要な学問書。古代の政治家はこれに基づいて政策を決定していた。
- 武力を重視(ぶりょくをじゅうし)…戦力や力を使って支配を強化すること。
- 儒行を亏す(じゅこうをおかす)…儒教に基づく礼儀や道徳をおろそかにすること。
- 淳風(じゅんぷう)…純粋で質素な風習。儒教に基づく道徳的な社会風潮。
以下に『貞観政要』巻一より、唐太宗と王珪の対話「今代の君臣が古に劣る理由」をご指定の構成に基づいて整理いたします。この章句は、政治と学問、そして為政者の徳性と人材登用のあり方についての深い洞察が語られており、現代においても極めて重要な示唆を含んでいます。
『貞観政要』巻一「今代の政治はなぜ古に劣るか」より
―古に学び、民を思い、学を重んじる政治の姿―
1. 原文
貞觀二年、太宗問黃門侍郎王珪曰:
「今代君臣治國,多劣於古,何也?」
對曰:
「古之帝王為政,皆志尚清靜,以百姓之心為心。今代則唯損百姓以遂其欲;所任用之大臣,復非經術之士。
漢家宰相,無不通曉一經,朝廷若有疑事,皆引經以決之。由是人識禮義,治致太平。
今代重武輕儒,或參以法律,儒行漸虧,淳風大壞。」
太宗深然其言。自此,百官中有學業優長、識政體者,多遷其階品,累加擢用焉。
2. 書き下し文
貞観二年、太宗、黄門侍郎・王珪に問いて曰く、
「今の時代における君主と臣下の国の治め方は、多くが昔の時代に劣るが、これはなぜであろうか?」
王珪、対えて曰く、
「古の帝王が政治を行った時は、皆、心を清静に保ち、民の心を自分の心とし、政治にあたりました。
今の時代は、ただ民を搾取して私欲を満たそうとするだけであり、また起用される大臣たちも、経書の学に通じた者ではありません。
かつて漢の時代の宰相は、皆いずれかの経書に通じ、朝廷に疑義があれば、必ず経書に拠ってその是非を決めました。それにより、人々は礼と義をわきまえ、政治も太平に至ったのです。
今の時代は武を重んじ、儒を軽んじ、法律をあてがって儒教的徳目を補うような形を取り、結果として儒の実践は次第に衰え、淳朴な風俗も大きく乱れてしまいました。」
太宗はその言葉に深く感じ入り、その後、官僚の中で学業に優れ政治の本質を理解する者を、次々と昇進させ、重用した。
3. 現代語訳(逐語)
- 「古之帝王為政、皆志尚清靜、以百姓之心為心」
→ 昔の帝王は政治を行うにあたって心を落ち着け、民の心を自分の心としていた。 - 「今代則唯損百姓以遂其欲」
→ 今の時代は、民から搾り取って私欲を満たすことばかりである。 - 「任用之大臣、復非經術之士」
→ 起用される大臣たちは、学問(特に儒学)を修めた者ではない。 - 「引經以決之」
→ 経書の教えに従って問題を判断する。 - 「重武輕儒、或參以法律」
→ 武力を重視し、儒学を軽んじ、法律で儒教の代用をする。 - 「儒行漸虧、淳風大壞」
→ 儒教的な行いは次第に失われ、社会の純朴な風習も大きく損なわれてしまった。
4. 用語解説
用語 | 意味 |
---|---|
清静 | 心を鎮めて私情なく公平に政治を行うこと。 |
經術之士 | 『詩経』『書経』『礼記』などの儒教経典を学んだ人材。 |
儒行 | 儒教に基づく道徳的な実践行為。 |
淳風(じゅんぷう) | 素朴で善良な民俗・社会風潮。 |
擢用(たくよう) | 抜擢して用いること。登用。 |
5. 全体の現代語訳(まとめ)
貞観二年、太宗は黄門侍郎の王珪に尋ねた。
「なぜ今の時代の君臣による国家運営は、古代の政治に比べて劣っているのか?」
王珪は答えた。
「古代の帝王は、心を清く保ち、民の思いを自らの思いとし、誠実に政治にあたっていました。ところが今の時代は、民を苦しめて私欲を満たすばかりで、登用される官僚も学問を修めた人物ではありません。
かつて漢の時代には、宰相は皆、いずれかの経典に通じており、朝廷において疑問があれば経典に照らして判断されていました。そのため、人々は礼義をわきまえ、社会は安定していたのです。
今の時代は、武を重視し儒を軽視し、法律によって道徳を代用しようとしているため、儒教の実践が衰え、素朴で正しい風俗も失われてしまっています。」
太宗はこの言葉に深く感銘を受け、以後、学識に優れ政治の道理を理解する者たちを次々と昇進させ、重要な役職に就けていった。
6. 解釈と現代的意義
この章句は、**政治における“民本主義”と“教養のあるリーダー像”**を強く打ち出しています。
王珪は、**「学問と徳に基づく政治こそが国家の安定をもたらす」**と説き、単なる武力や法令主義に偏ることで社会が乱れる危険性を指摘します。これは、専門性と倫理の両立が求められる現代の行政・企業経営においても、極めて普遍的な教訓です。
7. ビジネスにおける解釈と適用
- 「教養あるリーダーが組織の倫理をつくる」
知識だけでなく、理念・哲学を学び続けるリーダーでなければ、組織の判断軸はぶれやすくなる。 - 「目先の成果より、理念に照らして判断せよ」
儒学を“経”として判断の根拠にしたように、現代でも「会社の理念」「社会的使命」に基づいて意思決定すべきである。 - 「法令遵守だけでは信頼は築けない」
法を守るだけではなく、道徳的な行動、つまり“人として正しいか”という視点が不可欠である。
8. ビジネス用の心得タイトル
「学と徳を備え、民の心をもって政とせよ──“理念なき統治”は安定を生まない」
この章句は、リーダーが何を学び、何を拠り所として政治や経営を行うべきかという問いに、明確な答えを示しています。学問と民意に基づく統治を重視する方針は、今後の人材登用や組織文化の設計にも大きな指針となるでしょう。
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