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心が悟れば、どこでも極楽。悟れなければ、どこでも俗界

人は、束縛されるのも、解き放たれるのも――
すべては自分の心ひとつにかかっている。

もし心が澄みわたり、悟りの境地に至っていれば、
たとえ肉屋や酒屋のような、むさくるしい世俗の場所に身を置いていても、
そこはすでに清らかな極楽浄土のように感じられるだろう。

逆に、いかにも風流な生活を装って、
琴を弾き、鶴を飼い、花や草を愛でていたとしても、
もし心の内が悟れていなければ、
その人の中には、魔性の影が消えずに残ったままなのである。

古人の言葉にもこうある――
「よく悟ることができる者にとっては、塵にまみれた現実の世界も真の浄土となる。
だが、心が悟れていない者は、出家して僧の姿をしていても、実はただの俗人にすぎない。」
まさに、その通りである。

「纏脱(てんだつ)は只(ただ)自心(じしん)に在(あ)るのみ。心了(しんりょう)すれば、則(すなわ)ち屠肆糟廛(としそうてん)も、居然(きょぜん)たる浄土(じょうど)なり。然(しか)らざれば、縦(たと)い一琴一鶴(いっきんいっかく)、一花一卉(いっかいっき)の、嗜好(しこう)は清(きよ)しと雖(いえど)も、魔障(ましょう)は終(つい)に在(あ)り。語(ご)に云(い)う、『能(よ)く休(きゅう)すれば塵境(じんきょう)は真境(しんきょう)と為(な)り、未(いま)だ了(りょう)せざれば僧家(そうけ)も是(こ)れ俗家(ぞくけ)なり』。信(しん)なるかな。」

本当の清らかさは、形ではなく心にある。
外の世界をどう飾っても、心が濁っていれば、それは真の解放ではない。
心を澄ませ、どこにいても悟って在ること――
それこそが、真に自由で風雅な生き方なのである。


※注:

  • 「纏脱(てんだつ)」…束縛されることと解放されること。煩悩と悟りの対比。
  • 「屠肆糟廛(としそうてん)」…肉屋と酒屋。世俗の典型。
  • 「一琴一鶴(いっきんいっかく)」/「一花一卉(いっかいっき)」…風雅の象徴だが、表面的な演出にすぎない場合もある。
  • 「魔障(ましょう)」…悟りを妨げる心の迷いや煩悩のこと。
  • 「休す(きゅうす)」…悟りきること。仏教的文脈での「休心(きゅうしん)」にも通じる。
  • 邵堯夫(しょうぎょうふ)…北宋の儒学者。儒仏道を調和的に捉えた人物で、内面の修養を重視した。

原文

纏脱只在自心。
心了、則屠肆糟廛、居然淨土。
不然、縱一琴一鶴、一花一卉、嗜好雖清、魔障終在。
語云、「能休塵境為真境、未了僧家是俗家」。信夫。


書き下し文

纏(てん)脱(だつ)は只だ自心に在るのみ。
心了(りょう)すれば、則ち屠肆(とし)糟廛(そうてん)も、居然たる浄土なり。
然らざれば、縦い一琴一鶴、一花一卉(いっかいっき)の、嗜好は清しと雖も、魔障終に在り。
語に云う、「能く塵境を休すれば真境と為し、未だ了せざれば僧家も是れ俗家なり」。信なるかな。


現代語訳(逐語/一文ずつ訳)

「束縛からの解放(纏脱)は、すべて自らの心にかかっている」
→ 外的環境ではなく、自分自身の心のあり方が決定的に重要。

「もし心が明らかに悟られていれば、屠殺場や酒屋のような場所でさえも、清らかな浄土となる」
→ 汚れたとされる場所も、心の持ちようで聖なる場所に変わる。

「そうでなければ、たとえ琴や鶴、花や草のような風雅な趣味を好んでも、心の執着や迷いはなくならない」
→ 外見上は清らかに見えても、心が未熟であれば、それは単なる“見せかけ”にすぎない。

「言葉に曰く『塵世の境(俗世)を休めることができれば、そこが真の境地となる。心がまだ悟っていなければ、僧の世界もまた俗世にすぎない』」
→ 本質は、場所や肩書きではなく「心の悟り」にある。


用語解説

  • 纏脱(てんだつ):束縛と解放。煩悩・執着に「纏(まと)われている」状態から解き放たれること。
  • 自心:自らの心。外的状況よりも、内面の在り方が問題。
  • 心了(しんりょう):心が悟られている、理解され尽くしている状態。
  • 屠肆(とし)糟廛(そうてん):屠殺場と酒屋。俗悪で不浄とされた場所の例。
  • 一琴一鶴、一花一卉:風流や清雅を象徴する対象。趣味的・美的に高尚とされるもの。
  • 魔障:心を惑わせる妨げ。迷いや煩悩の象徴。
  • 語云:「語に云う」=古人の言葉を引用している。
  • 休す:鎮める、静める、手放す意。
  • 僧家是俗家:「いくら僧侶の家であっても、心が未悟ならば俗世と変わらない」という皮肉。

全体の現代語訳(まとめ)

煩悩や束縛からの解放は、すべて自分の心にかかっている。
もし心が本当に悟られていれば、どんなに俗悪とされる場所でも、清らかで安らかな世界に見えてくる。
逆に、風雅な趣味に囲まれていても、心が未熟であれば、それは煩悩にまみれた世界に変わらない。
古人は言った、「俗世を離れるとは、場所ではなく、心がそれを超えてこそ意味がある」と。
まさにその通りである。


解釈と現代的意義

この章句は、「真の自由・清浄・解脱は、心の中にしか存在しない」という根本的な思想を説いています。

  • 環境をいくら変えても、心が変わらなければ“俗”から抜け出せない。
  • 一見清らかに見える生活(趣味・風雅)も、自己満足や逃避であれば、それは煩悩である
  • 真に自由で清らかな境地とは、心が整い、どんな環境にも惑わされない状態

ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)

1. 「本質は“働く環境”ではなく、“働く心”にある」

華やかなオフィスやタイトルよりも、一人ひとりが“何を目指して働いているか”の方が重要
雑務も志があれば“浄土”となり、綺麗な仕事も心が迷えば“魔障”となる。

2. 「見かけの“清さ”に惑わされるな」

美しいプレゼンやスマートな言動も、実態のない演出であれば逆効果
本質を見抜く力を持つことが、リーダーシップの核心となる。

3. 「自らの“心の状態”が、職場の空気をつくる」

職場の雰囲気やチーム文化も、制度や外形ではなく、“一人ひとりの心の整い”がベースとなる。
雑然とした現場でも、誠実な心があれば、そこは浄土になる。


ビジネス用の心得タイトル

「心が整えば、雑踏も浄土──環境より心に自由を求めよ」


この章句は、「外側の清浄さではなく、内側の純粋さがすべてを変える」
という、東洋的リーダーシップ哲学の真髄を表しています。

どこで、何をしていても、心が澄み切っていれば、それが“道”の実践であり、
本当の意味での清らかさ・尊さがそこに宿ります。

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