欲を減らし、さらに減らしていくと、やがて“無”の境地――すなわち何も求めない、執着のない生き方に至る。
そんな境地では、ただ静かに花を植え、竹を育てて過ごす日々に、深い満足と愉しみがある。
忘れてはならないことさえ忘れ、気ままに香を焚き、茶を煮て、誰にも何も期待しない。
たとえば、酒を届けてくれる白衣の童子(はくいのどうじ)が現れなくても、心は少しも波立たない。
これは、**老子の言う「之を損してまた損し、以って無為に至る」**という、行き着くところまでそぎ落とした先に訪れる“無為自然”の境地である。
無になってこそ、日常の些細な動作や風景が、逆に豊かに感じられる――
**「何も持たないことが、すべてを持つこと」**であるかのような、不思議な静けさと充実に満たされるのだ。
引用(ふりがな付き)
之(これ)を損(そん)して又(また)損し、花(はな)を栽(う)え竹(たけ)を種(う)えて、儘(ほしいまま)に烏有先生(うゆうせんせい)に交還(こうかん)す。
忘(わす)るべき無(な)きを忘(わす)れ、香(こう)を焚(た)き茗(ちゃ)を煮(に)て、総(すべ)て白衣(はくい)の童子(どうじ)に問(と)わず。
注釈
- 之を損して又損し:『老子』第四十八章「道を為すは日に損し、これを損してまた損して、以って無為に至る」に由来する。すべてをそぎ落とすことで、無為自然に達するという思想。
- 烏有先生(うゆうせんせい):何も存在しない“無”を人格化した呼び名。漢の司馬相如による虚構の人物。ここでは「無の象徴」。
- 白衣の童子:詩人・陶淵明の故事より。酒を届けに来た白衣の使者を指し、ここでは「他人からの贈り物や期待」を意味する。
- 香を焚き茗を煮る:精神的な静けさと日常の小さな風雅の象徴。
関連思想と補足
- 本項は、ただ「無欲になる」ことを説いているのではなく、「求めないことの自由」と「そぎ落としたあとの豊かさ」を強調している。
- 『老子』『荘子』における“無為自然”の極致であり、『菜根譚』後集第2条・31条と響き合う。
- 他者に期待せず、行為そのものに静かに向き合うことこそ、心の最も深い自由と豊かさにつながる。
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