MENU

肉親のあいだでは、恩も徳も数えない――自然な愛情こそ本物

親が子を思いやり、子が親に孝を尽くし、
兄や姉が弟妹をいたわり、弟妹が兄姉を敬う。
これらがたとえ完璧なまでに実行されていたとしても
それは**肉親として“当然のこと”**であって、
いちいち感謝の言葉を交わしたり、恩を着せたりするべきものではない。

もし、施す者が「自分は良いことをした」と意識し、
受ける者が「ありがたい、恩に報いねば」と過剰に感じるようになれば、
それはもはや血縁ではなく、他人同士の関係と何ら変わらなくなる。

家族の愛情とは、見返りを求めず、自然に湧き出るものである。
それが商取引のような打算や礼儀の交換になってしまっては、
本来の温かさや親密さが失われてしまう。


原文(ふりがな付き)

父(ちち)は慈(いつく)しみに、子(こ)は孝(こう)に、兄(あに)は友(ゆう)に、弟(おとうと)は恭(うやうや)しく、縦(たと)い極処(きょくしょ)に做(な)し到(いた)るも、俱(とも)に是(こ)れ合当(がっとう)に此(か)くの如(ごと)くなるべし。一毫(いちごう)の感激(かんげき)の念頭(ねんとう)を着(つ)け得(う)ず。如(も)し施(ほどこ)す者(もの)は徳(とく)に任(にん)じ、受(う)くる者は恩(おん)を懐(おも)わば、便(すなわ)ち是れ路人(ろじん)、便ち市道(しどう)と成(な)らん。


注釈

  • 極処に做し到る:親子・兄弟間の道徳が理想的に行き届いている状態。
  • 合当(がっとう)に此の如くなるべし:「当然そうであるべきこと」とする儒教的思想。
  • 一毫の感激の念頭:少しでも「感謝の気持ちを持たせよう・感じよう」という気配。
  • 徳に任じ/恩を懐わば:施す側が「自分は偉い」と思い、受ける側が「ありがたい」と感じる状態。
  • 路人(ろじん):他人、通りすがりの人。
  • 市道(しどう):商取引のような、利害の交換による関係性。

※この教えは中国的な「親子・兄弟は一体である」という価値観に根ざしています。一方で日本文化には「親しき仲にも礼儀あり」という考え方も根強く、感謝や敬意を言葉で表すことを美徳とします。国や文化の違いによって、同じ「家族愛」の表現が微妙に異なる点は興味深いです。


パーマリンク(英語スラッグ)

  • natural-affection-in-family(家族の愛情は自然に)
  • no-debt-in-true-love(真の愛に貸し借りはない)
  • family-is-not-a-transaction(家族は取引ではない)

この条文は、**「無償の愛とは何か」**という、普遍的かつ深遠なテーマを投げかけています。
現代においては、親子・兄弟関係の希薄化や、家族内での役割の形式化が問題視される場面もありますが、
この教えは、「自然で無言の愛こそ、もっとも本質的な家族の絆である」と教えてくれます。

目次

1. 原文

父慈子孝、兄友弟恭、縱做到極處、俱是合當如此、着不得一毫感激念頭。
如施者任德、受者懐恩、便是路人、便成市道矣。


2. 書き下し文

父は慈に、子は孝に、兄は友に、弟は恭に、たとえ極処にまで行き届いても、
みな当然そうあるべきことであり、一点の感激の念を抱くべきではない。
もし施す者が徳を誇り、受ける者が恩を感じるなら、
それは他人行儀であり、打算的な関係となってしまう。


3. 現代語訳(逐語/一文ずつ)

  • 父が子を慈しみ、子が親に孝行し、兄が弟に親しみ、弟が兄を敬うことは、たとえ完璧に行われていても、すべて本来そうあるべきことである。
     → いくらよくできていても、それは当然であり、感謝や感激の気持ちを期待すべきではない。
  • もし施しをする者が“徳を施している”と自負し、受ける者が“恩に報いなければ”と意識しているようでは、
     → それはもはや親子・兄弟ではなく、赤の他人のような打算的な関係である。
  • それはまるで街中の売り手と買い手のような“市道”であり、情義ではなく利得の関係になってしまう。

4. 用語解説

  • 極処に做到る(ごくしょにいたる):最高の水準で実践すること。
  • 合当(がっとう):当然の道理、当然そうあるべきこと。
  • 一毫(いちごう):ごくわずか、ほんの少し。
  • 念頭を着く:心に浮かべる、思いを抱くこと。
  • 施者任德(ししゃにんとく):施す側が“自分は徳を与えている”と誇ること。
  • 受者懐恩(じゅしゃかいおん):受ける側が“恩を受けた”と負い目を感じること。
  • 路人(ろじん):他人、通りすがりの人。
  • 市道(しどう):市場取引のような損得勘定の関係。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

親が子を慈しみ、子が親に孝行し、兄弟が互いに敬い合うことは、
たとえどれほど完璧に実践されていたとしても、それは本来当然のこと。
そこに「ありがとう」「感謝してほしい」といった感激の心を持つべきではない。
もし施す側が徳を誇り、受ける側が恩を感じていれば、
それはもはや親子や兄弟ではなく、見知らぬ他人のような打算的関係になってしまう。


6. 解釈と現代的意義

この章句は、**人間関係における「自然な義務感と無私の心」**を説いています。

  • 親子・兄弟関係は“打算や見返り”で測るものではない。
  • 本当に誠実な人間関係は、恩着せがましくなく、感謝を求めるでもなく、
     “そうあるべきもの”として自然体で成立しているべき。

道徳的な行為は、見返りを期待して行うものではなく、
「当然だからする」という無私の精神にこそ価値があるという教えです。


7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)

● 「義務や協力を“してあげた”意識にしない」

  • チーム内で「自分がやってやった」と恩を着せる態度は、
     関係性を打算的にし、信頼を損なう。

→ 真の協働関係とは、“やるべきだからやる”という姿勢が前提である。


● 「評価や感謝を“当然”として求めない」

  • 部下に対する指導、上司への貢献も「これだけやったから褒められて当然」ではなく、
     職務として当たり前に行うことに意味がある。

→ そこに余計な“感激の念”を求めないことで、本質的な信頼関係が築かれる。


● 「人間関係を“損得”で見ない」

  • 人脈・社内関係・協力先に対し、「これだけしたから返してほしい」という
     市道的な(=市場的・取引的)感覚を持つと、関係は崩れる。

→ 信頼・協力は、“情義の上”に築くべきで、
 損得勘定が前面に出ると信頼は一気に薄れる。


8. ビジネス用の心得タイトル

「してあげた、してもらったを超えて──“あるべき姿”が信頼を生む」


この章句は、家庭や人間関係はもちろん、**組織や職場においても“無私の誠意”が最も尊い”**という東洋的倫理観を表現しています。

見返りを求めない行動、自然な責任感による関わりこそが、
深くて持続的な信頼と尊敬を生む土台であるという知恵が、現代においても色褪せずに響きます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次