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慟哭は、真に愛した者のために

感情を抑える孔子が、抑えきれなかった悲しみ

孔子の最愛の弟子、顔淵(がんえん)が亡くなった。
その葬儀で、孔子はあまりの悲しみに、抑えていた涙が堰を切ったようにあふれ、身を震わせて慟哭された。

それを見ていた門人たちは驚き、思わず声を上げた。
「先生が……慟哭しておられる……!」

これを耳にした孔子は、しばし沈黙し、静かにこう答えた。
「そうか、私は慟哭していたのか。だが、もし誰かのために慟哭するとすれば――あの顔淵以外に誰がいるというのか」

常に中庸を保ち、感情を外に大きく出すことの少なかった孔子。
しかしその彼が、耐えきれないほどの悲しみに打ちのめされ、自らも気づかぬうちに慟哭していた――それほどまでに顔淵は、孔子の心に深く刻まれた存在だった。


引用(ふりがな付き)

顔淵(がんえん)死(し)す。子(し)、之(これ)を哭(こく)して慟(どう)す。
従者(じゅうしゃ)曰(い)わく、「子(し)、慟(どう)するか」
曰(い)わく、「慟(どう)有(あ)らんには、夫(そ)の人の為(ため)に慟(どう)するに非(あら)ずして、誰(たれ)が為(ため)にせん」


注釈

  • 哭する(こくする):死者を悼み、声を上げて泣くこと。
  • 慟哭(どうこく):心の底から震えるように泣き叫ぶこと。耐え難い悲しみを表現する極限の形。
  • 従者(じゅうしゃ):孔子に同行していた弟子たち。
  • 中庸(ちゅうよう):喜怒哀楽を極端に出さず、常に節度とバランスを保つ儒教の徳目。
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