勇士よ(※アルジュナのこと)、確かに意は動揺し、抑制され難い。しかし、それは常修と離欲とによって把促される(第 6章 35節)
何かを学びはじめたとき、「分からない」という壁は誰にでも立ちはだかる。
特に『バガヴァッド・ギーター』のように、人生そのものを問い直すような書に出会ったとき、
その深さや抽象さに心がすくむのは当然のことだ。
「自分に理解できるのだろうか」
「読んでも頭に入ってこない」
「思っていたのと違った」――
そんな気持ちが湧いてくるのは自然なこと。
だが、それでも学びをやめてはならない。
『ギーター』において、心の揺れを訴えたアルジュナに対してクリシュナはこう語る。
「意は確かに動揺し、抑え難い。だが、それは常習(アッビャーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって制御できる」(第6章35節)
アッビャーサとは、「理解できるかどうか」ではなく、「続けること」そのものに意味があるという教えだ。
今日分からなくても、明日には分かるかもしれない。
来月には腑に落ちるかもしれない。
それが一年かかっても、十年かかってもかまわない。
真理とは、急いでつかみ取るものではなく、静かに馴染んでいくものなのだ。
私たちは「すぐに成果を出さなければ意味がない」という教育に慣れすぎている。
けれど、『ギーター』はそれとは違う価値観を私たちに差し出してくる。
**「続ける者が、いつか真に理解する」**という価値観だ。
そのためにはもう一つの力が必要となる。
それが**ヴァイラーギャ(離欲)**である。
「あれもこれも知りたい」
「人より早く進みたい」
「自分だけは特別でありたい」――
こうした欲が心に渦巻いている間は、深く静かな学びは育たない。
本当に大切なものに気づくには、
「大切でないもの」に対する執着を手放すことが必要だ。
この冷静さと見極めの力は、アッビャーサを通じて少しずつ磨かれていく。
アルジュナのように、心が揺れてもよい。
「風のように動揺する」と嘆いてもかまわない。
大切なのは、学びの火を絶やさないことである。
道は、歩いた者にだけ開かれる。
焦らず、静かに、今日もひとつ言葉を読むこと。
それが、理解への最短距離なのだ。
実に意は動揺し、かき乱し、強固である。それは風のように抑制され難いと私は考える。(第 6章 34節)
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