人は何かを求めて生きている。
新しい衣服、安心できる住まい、理解し合える伴侶――
それらを得たとき、心は喜びに満たされる。
だが、その喜びが長く続かないことを、私たちは経験から知っている。
手に入れたものはやがて色あせ、満足は次なる「もっと」の扉を開く。
そしてまた、新たな欲望が生まれる。
これが「カーマ(欲望)」の本性である。
欲望とは、満たしても満たしても、終わることのない渇きのようなもの。
それが満たされないとき、人は失望し、怒り、時に他者を責める。
満たされたときでさえ、次の欲を求めて心は落ち着かない。
欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる、三種の地獄の門である。それ故、この三つを捨てるべきである。(第 16章 21節)
しかし、欲望そのものが悪なのではない。
欲は、行動の原動力であり、方向さえ正されれば力となる。
問題は、それに支配されることである。
燃え上がる火のように、欲望は理性を飲み込み、正邪の判断を曇らせる。
火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれ(欲望、怒り)に覆われている。(第 3章 38節)
このように心が濁れば、何が正しく、何が過ちかを見極める目は失われる。
「自分とは何か?」という問いにも答えられなくなる。
では、どうすればよいか。
まずは、自分の中にある欲望の性質を知ること。
それがどこから生まれ、何に引き寄せられているかを、冷静に観察すること。
次に、その欲望に従うのではなく、距離を取ること。
欲望に支配されず、それを扱う者になること。
その訓練こそが、ヨーガの教えに他ならない。
自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。(第 6章 6節)
自分自身が味方になるのか、敵になるのか――それは欲望との向き合い方次第である。
欲望は、恐れるものではない。
だが、盲信して従えば、心は迷い、道を誤る。
真に自由な者とは、欲に振り回されず、静かに欲を超えていく者である。
コメント