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結果に縛られれば、心は欲に呑まれる

行いの結果は、自らの手では操作できない。
それはこの世界の摂理――イーシュヴァラのはたらきによってもたらされるものである。
にもかかわらず、人はその結果を自分の意志で引き寄せられるかのように錯覚してしまう。

「お金を稼ぎたいから、起業しよう」
「賞賛されたいから、SNSで発信しよう」
「痩せたいから、食事を制限しよう」
これらの行為はすべて、「行いの結果」を中心に据えた動機である。

その背後にあるのは、「ラーガ(執着)」と「ドヴェーシャ(嫌悪)」の心の働きである。
喜びをもたらすものには強く惹かれ、苦しみをもたらすものは排除しようとする。
それが、無意識に私たちの行動を駆り立てる。

だが、結果とは、こちらの「好き」「嫌い」に応じて動くものではない。
思いどおりにならない結果に出会うたび、心は不満を募らせ、
「もっとこうなれば」「これも手に入れたい」と、次から次へと欲が膨れ上がってゆく。

こうして生まれた「カーマ(欲望)」は、静けさを知らぬ暴れ馬となる。
一つを得ても、満足せず、さらなる欲を求めて走り出す。
その炎は、次第に心の内を焼き尽くし、本来の静寂と明晰さを奪っていく。

そして、そのようにかき乱された心に、「ブラフマンの知識」が入る余地はない。
智慧は、静まり返った心にのみ根づく。
結果に一喜一憂する心では、真理は見えない。

だからこそ、求めるべきは「結果」ではなく、「誠実な行為」そのものである。
行うことに集中し、結果はイーシュヴァラに委ねよ。
それこそが、「カルマ・ヨーガ」の精神であり、自由への第一歩である。

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