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争いを恐れず、正しく用いよ

争いは、ただ避けるべきものとして否定してはならない。

世に生き、他と関わる以上、意見の違いや利害の対立は避け得ぬものである。

むしろ、正しく用いられた争いは、進歩と真理の契機となる。

沈黙が美徳とされる場においても、不正に黙して従えば、それは卑屈でしかない。

誠実に異を唱え、正しきを通す争いには、気骨と真心が宿る。

ただし、争うにあたっては、理を忘れず、怒りに支配されてはならぬ。

争いは道を開く手段であって、破壊の目的ではない。

己を押しつけるためではなく、より良き解を求めるためにこそあるべし。

私一己の意見としては、争いは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであろうかと信ずる

論語と算盤

争いをすべて悪とするのは、浅き理解である。

争いとは、憎しみや破壊のことではない。

それは、自らを磨くための厳しき試練であり、良き刺激である。

孟子が言う通り、「敵国外患なき者は、国つねに亡ぶ」

安きに流れ、挑戦を忘れた国は、やがて内から腐っていく。

これは国家に限らず、商業、学術、外交、さらには一個人にも同じことが言える。

敵がいるから、己の足元を見つめる。

外圧があるから、内なる力が目覚める。

四囲に挑む者あってこそ、進歩の気概が養われる。

争いは「否」ではなく、「燃料」である。

無風の水面に、波は立たない。

だが、波立たぬ水は、やがて澱み、腐る。

風に抗い、波に揺られてこそ、水は流れを保ち、清さを保つ。

個人の人生においても、敵を持つことは必要である。

他人に否定される経験。

意に沿わぬ批判。

己よりも秀でた者の存在。

これらすべてが、己を深め、己を越えるための道標である。

避けるのではなく、正面から向き合うこと。

争いを恐れず、そこに品格と勝気をもって挑むこと。

それが、真に健全なる発展への礎となる。

成長したければ、争え。

だが、勝つべき相手は、常に他者ではなく、昨日の自分である。

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