人を見極めんとするならば、まずその行いに注目すべし。言葉ではなく、日々の行為にこそ、その人の真意が表れる。
行いの善し悪し、正邪を見定めたうえで、何がそれを動かしているかを見抜け。
利によるのか、義によるのか。恐れからか、信念からか。
さらに深く観察すれば、その人がどこに安らぎを得ているかが見えてくる。
何に心を寄せ、何に満足を感じて生きているのか。
そこまで知れば、その人の真の姿が自然と浮かび上がる。
人を知るとは、皮相をなぞることではない。
動機と心の拠りどころを見通してこそ、誤らぬ眼となる。
○人物観察法は、まず第一にその人の外部に顕われた行為の善悪正邪を相し、それよりその人の行為は何を動機にしているものなるやを篤と観、さらに一歩を進めて、その人の安心はいずれにあるや、その人は何に満足して暮らしてるや等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になる 渋沢 栄一. 論語と算盤
論語・為政篇に見られるように、「視」「観」「察」の三つをもって人を見極めよというのが、孔子の教えである。
「視」と「観」はどちらも「みる」と読むが、意味は異なる。「視」とは、外見をただ肉眼で眺めることに過ぎない。一方「観」は、外見のさらに奥に入り込み、肉眼だけでなく心の目――心眼を用いて相手を見ることを意味する。
孔子が説いた人物観察の方法は、次のような段階を踏んでいる。まず、その人の外に現れた言動を見て、その善悪や正邪を判断する。次に、その言動が何を動機として生じたのかを深く観察する。そしてさらに進んで、その人が心のどこに安らぎを感じ、日々何に満足を得て暮らしているのかを見極める。ここまで見れば、その人の本質ははっきりと見えてくる。どれほど取り繕おうとしても、真の姿を隠すことはできない。
たとえ表面的な行いが正しく見えても、それを動かしている心が正しくなければ、その人を真に正しい人とは言えない。時として、表面的には悪を避けているように見えても、実際には悪に染まることを厭わぬ心を持っている場合もある。
また、言動もその動機も正しいとしても、その人がただ「食べて、着て、楽に暮らせれば満足だ」といった安逸を人生の拠り所にしているようであれば、状況次第で誘惑に負け、思いがけない悪事に走る可能性もある。
だからこそ、その人の行動、行動の動機、そして何に満足して生きているか――この三つがすべて正しくなければ、その人が本当に正しい人物であるとは言い切れないのだ。
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