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職位記述書社長

先日、U社を訪問した際、U社長から「自社の社員の動きがどうも消極的で困っている」と愚痴をこぼされた。業績が思わしくないため社員を奮起させようと気合を入れているものの、全く効果が見られないとのことだ。U社ではしっかりとした職位記述書が整備されており、これが非常に重んじられているようだ。

その職位記述書というのが、社員一人一人にまで細かく規定されているという徹底ぶりで、まさに行き過ぎと言わざるを得ない。その過剰な規定が、かえって社員の行動を消極的にさせている原因となっているのだ。

職位ごとに「何をしなければならないか」を細かく定めていることは、裏を返せば「それ以外のことはやらなくてもよい」あるいは「やるべきではない」というメッセージとして受け取られてしまう。これが、社員たちの積極性を奪う一因となっているのだ。

社員たちの関心は職位記述書にばかり向けられ、そこに書かれた内容に違反しないように行動することに注力している。なぜなら、それが最も手軽で安全な選択肢だからだ。

人事異動や組織変更の際には、必ず各社員一人一人の職位が細かく決定され、それに基づいて職位記述書が見直される。不合理と思われる箇所があれば修正される仕組みだ。

その結果、職位記述書は次第に内容が膨らみ、同時に間接部門の人員も増加の一途をたどっている。どう考えても必要人員の倍以上は配置されているように見え、非効率さが目立つ状況だ。

その一方で、開発部門や営業部門は著しく弱体化している。なぜこんな過剰な職位記述書を作るのかと尋ねると、「職位記述書がなければ、誰に何をさせればよいのかわからなくなる。それでは人を動かせない」との答えが返ってきた。全く困ったものである。

U社長の最近の大きな悩みは、新工場の生産が思うように軌道に乗らないことだった。遠隔地にあるため、直接目を配るのが難しいとのことで、「一度見てくれないか」と頼まれた。

新工場を訪れてまず驚いたのは、わずか30名ほどの小規模な職場にもかかわらず、守衛所が設置され守衛が配置されていることだ。来客がほとんどないはずなのに立派な応接室まである。全体的に無駄が多く、お役所的な運営が目につく。これでは業績が良くなるはずがない。本社も工場も、まず不要な人員を整理し、その分の浮いた賃金を地域平均より一割以上低い賃金ベースの引き上げに充てれば、それだけで社員の士気が高まり、今以上に働くようになるだろう。

その立派な応接室で工場長の説明が始まったが、最初に取り上げられたのは、驚くことに例の「立派な職位記述書」についてだった。まさに、あいた口がふさがらないとはこのことだと思わざるを得なかった。

思わず声を張り上げてしまった。「今、工場長がやるべきことは、職位記述書を作ることじゃない。一日も早く、この混乱した工場の生産を軌道に乗せることだ。それ以外のことはすべて後回しにすべきだ。」と言わずにはいられなかった。

本社に戻ると、今度は社長を徹底的に批判する番だった。「職位記述書を過剰に重視した結果がこれだ。ことの本末や優先順位を正しく判断できない幹部を育て上げたのは、他でもない社長自身だ。」と言い放たずにはいられなかった。

社長は、今何を優先して行動すべきかを真剣に考えなければならない。本当に新工場の混乱が当面の最大の問題であり、営業活動に深刻な支障を与えているというのなら、社長自らが新工場に泊まり込み、生産が軌道に乗るまで陣頭指揮を執るべきではないのか。それが経営者としての責務ではないかと強く言いたい。

それなのに、社長は「遠隔地だから目が届かない」と言い訳し、事態を放置している。一方で、すでに軌道に乗り問題のない本社工場には自ら陣頭指揮に立ち、逆に、混乱が続き軌道に乗りそうもない新工場は、無能な幹部を工場長に据え、任せきりにしている。これではまるで逆の行動を取っていると言わざるを得ない。

新工場こそ、社長のビジョンを実現するための重要な柱だ。そのためには、社内で最も有能で適任な人物を工場長に任命すべきだ。その人材が抜けることで元の部門がどれほどの影響を受けるかなどといった懸念を捨て、蛮勇を奮ってでも断行する必要がある。それが長期的な成功を見据えた経営判断というものだ。

「軌道に乗っている仕事は凡人でもなんとかこなせるが、新しいことを凡人に任せても成功するわけがない。新しい仕事には優秀な人材を充てなければ成果は望めないし、逆にその人材を軌道に乗っている仕事に据えるのは、全くもってもったいないことだ。」と、非礼を承知で直言せざるを得なかった。

企業を存続させ、社員の生活を守るという重大な社会的責任を背負う立場にある社長だからこそ、私は厳しい忠告をせざるを得なかった。それが経営者としての本分を全うするための助言だと信じている。

世間でよく言われる職位記述書や責任権限論といった組織論は、平穏無事な時には機能するかもしれない。しかし、いざ問題が発生した時にこれに固執すると、かえって足かせとなり、事態の解決を遅らせるばかりか、場合によっては解決そのものを不可能にしてしまう危険がある。

社員は、職位記述書のような文書に明記されていないことは「自分の責任外」と思い込む傾向がある。その結果、本来起こすべき行動を起こさなかったり、今回のように何が本当に重要なのかを見失ってしまうことになる。こうした状況では、柔軟な判断力や主体的な行動が阻害され、組織全体が停滞する原因となる。

ある会社では、「定員制」を導入した結果、柔軟な対応ができなくなり、重大な事態を招きかねない状況に陥ったことがある。具体的には、圧延機の定員を約10年前に固定してしまったことが原因だった。当時から賃金ベースは三倍以上に膨れ上がった一方で、製品の売価はほとんど変わらず、収益性が悪化していた。さらに、今後5年で賃金ベースがさらに上昇することが確実視される一方で、製品の売価はその上昇をカバーするほど上がる見込みは全くなかった。こうした硬直した運用は、企業の持続可能性を脅かす危険な要因だ。

定員を削減しようとすれば、労働組合が強硬に反対する。「この定員制は、科学的な調査と検討の結果決められたものであり、削減すれば労働強化につながる」と主張するのだ。組合側のこの姿勢が、柔軟な人員配置や生産性向上の妨げとなり、会社全体の競争力をさらに弱める原因となっている。

私は人事の責任者に対し、辛辣な言葉をぶつけた。「あなた方は本当にどうかしている。定員制などというものを提唱している連中は、企業経営の現場を何も知らない素人だ。その素人の観念的な主張を、経営のプロであるあなた方がなぜ鵜呑みにするのか。定員制なんてものは、つぶれる心配のないお役所でしか通用しない理屈だ。客観情勢の変化に対応するためには、企業には機動力と弾力性が不可欠だ。定員制なんて、その足を引っ張るだけの無用の長物だ。」と、言わずにはいられなかった。

新しい事態に直面したときには、新しい考え方で対応し、採算を取っていかなければならない。定員制や標準時間の妥当性というのは、あくまで「これまでと同じ考え方とやり方を続ける」という前提に基づいたものだ。しかし、時代や状況が変化すれば、その前提自体が通用しなくなる。新しい環境に適応するためには、過去の固定観念に縛られるのではなく、柔軟かつ革新的な方法を模索しなければならない。

企業というものは、今までと同じ考え方ややり方を続けているだけでは、すぐに破綻してしまう。企業経営はまさに戦争のようなものであり、勝つためには企業内のすべての資源を最大限に有効活用しなければならない。それは、観念論や形式論に頼るのではなく、現実に即した知恵と行動によって成し遂げられるものだ。勝つためには柔軟な発想と実行力が不可欠であり、それを欠いていては、どんなに立派な理念や計画があっても実際の成果は得られない。

企業が勝ち残るためには、長期的および短期的な状況を的確に判断し、それに基づいて緩急の優先順位を明確にし、限られた資源を重点的に配置することが絶対に必要だ。この「重点配置」の原則を忘れてしまえば、企業戦争に勝つことは不可能である。リソースを分散させてしまえば、どれも中途半端に終わり、肝心な部分で競争に負ける。勝利の鍵は、最も重要なところに集中して力を注ぐことにある。

U社長が導入した「職位記述書」は、社員一人一人にまで役割と責任を細かく定めるあまり、逆に社員の行動を制約し、消極的な組織を作り出してしまいました。このように職位記述書に依存する企業文化では、社員がその枠を越えて行動することを避けがちです。結果として、各自が受け身に徹し、組織全体の柔軟さが失われ、企業の成長や変化への対応が困難になります。

本来、企業経営においては、変化する状況に迅速に対応し、優先順位に応じた行動が不可欠です。社長や幹部が職位記述書や定員制といった観念論にとらわれてしまうと、企業の存続を左右するような重大な意思決定が遅れたり、軌道に乗せるべき新工場のような重要なプロジェクトでさえ後回しにされてしまうリスクが高まります。

社長や経営陣には、組織の柔軟性を保ちながら、時に非常識ともいえる果断さを発揮し、限られた資源を最も効果的に配置する視点が求められます。

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