S社は、オートバイ部品の加工およびサブアッセンブリーを手がける企業だ。従業員数はおよそ250人。社長は加工技術のエキスパートであり、常に作業着姿で現場に立ち、合理化に取り組んできた。その結果、生産設備や加工技術、同期化編成のいずれにおいても、中小企業としては最高水準に達している。
また、その徹底した合理化によって、激しい競争を勝ち抜き、親会社からの連続的な値下げ要求にも応えながら生き残ってきた優良企業でもある。
しかし、約5年前から状況が変わり始めた。仕事量は常に十分で、売上も順調に伸びていたにもかかわらず、利益が徐々に減少し始めたのだ。そして、オートバイ業界が初めて経験する本格的な不況に直面すると、売上がさらに低下し、ついにS社は赤字へと転落した。社長はその原因を徹底的に検討した。売上の減少や工賃の値下げが一因であることは間違いない。
しかし、売上高の変動は今後も起こり得ることであり、値下げはS社だけが行ったわけではない。そう考えると、結論は明確だった――まだ合理化が不十分なのだ。社長はそう判断し、さらに優れた設備を導入し、自動化を推進することで競争に打ち勝つ道を選ぶと決心した。
厳しい資金繰りの中で、まさに血を吐く思いで資金を捻出し、それでも足りない分は、社長が個人的な人脈を駆使して資金を借り入れ、それを新たな設備投資に充てた。その合理化は、不況期における金利負担の増加という大きな犠牲を伴った、覚悟の決断だった。
もちろん、設備の合理化だけに頼ったわけではない。社長自ら工場の隅々まで目を配り、ムダを徹底的に洗い出すとともに、作業改善の提案を募り続けた。また、連日のようにVA(価値分析)会議を開き、材料費の削減にも全力で取り組んだ。さらに、外注部品についても全面的な見直しを行い、その結果として大きな成果を挙げることができた。
不良率はわずか1%と極めて低かったが、それでも潜在不良、つまり手直し作業を完全に排除することを目指し、大規模なZD(ゼロディフェクト)運動を展開した。各職場には具体的な目標が設定され、その達成に向けて特別な奨励金制度が導入された。まさに全社一丸となった総力戦の様相を呈していた。
一方で、親会社からの値下げ要求は、不況の影響もあっていつにも増して大幅で厳しいものとなっていた。苦労して進めた合理化も、こうした状況では一体誰のためにやっているのかわからなくなるような気分にさせられた。
苦難の中で迎えた昭和40年、オートバイ業界の景気回復により、S社はこれまでにない画期的な売上を達成した。従業員一人当たりの付加価値も過去最高を記録し、合理化による値下げ分を補うだけでなく、それを上回る成果を上げることができたのである。
しかし、それほどの成果を上げたにもかかわらず、会社の最終的な収支は「赤字ではない」という程度のわずかな黒字にとどまった。利益の多くが賃金の上昇によって吸収されてしまったからである。
さらに大幅な合理化を進めなければ、会社が再び赤字に転落するのは明らかだった。社長は合理化への取り組みにさらに拍車をかけ、苦しい戦いを続けた。それでも、仕事が十分にある間は、まだ何とか希望を保つことができた。
ところが、ベトナム戦争の影響で昭和41年の春頃からオートバイの対米輸出が減少し始めた。その結果、一般的な景気の好調さとは裏腹に、オートバイ業界は再び深刻な不況に見舞われることとなった。
国内需要はすでに3年前から横ばい状態にあった。衰退傾向にあるオートバイ業界が活路を求めた輸出も行き詰まり、状況はさらに悪化した。このように、斜陽産業が抱える危機の本質がここに表れているのだ。
秋になると、季節的な要因も重なり、大幅な減産を余儀なくされたことで、S社は深刻な打撃を受けた。10月頃の概算では、会社創業以来最大規模の赤字が発生していることが判明し、事態は一層厳しさを増していった。
この頃になると、資金繰りは目に見えて悪化し始めた。手持ちの受取手形は底をつき、支払手形のサイトを延長せざるを得なくなった。さらに、経費節減の方針の下、必要なトラックのオーバーホールさえ後回しにするなど、苦しいやり繰りが続いていた。
社長は次第に、どうすれば状況を打開できるのかわからなくなっていった。どれほど懸命に能率向上に取り組んでも、会社の業績は悪化の一途をたどるばかりだった。どこに突破口を見いだせばよいのか、全く見当がつかない。悩みは深まる一方で、出口の見えない状況に追い詰められていた。
その苦境を見かねた社長の友人が、私のもとへ相談に訪れた。そして、S社長に直接お会いし、これまでの経緯を詳しく伺った。社長は深いため息をつきながら、「どうしたらいいのか本当にわからない。ただ、今は能率向上に努める以外に打つ手が見当たらない」と語った。その言葉には、行き詰まった状況への焦りと苦悩がにじみ出ていた。
S社社長の苦悩:合理化努力の限界と新たな戦略の必要性
S社は、オートバイ部品の加工とサブアッセンブリーを行う中小企業で、従業員約250人を擁する製造業です。S社の社長は加工技術に精通し、自ら工場の現場で指揮を執り、合理化を推進してきました。その結果、同社は生産設備や加工技法、同期化編成において中小企業の中でも最高レベルに達し、激しい競争に耐え抜いてきたのです。しかし、数年前から売上が順調に伸びていたにもかかわらず、利益が減少し、ついには赤字に転落してしまいました。
社長は赤字の原因を検討し、生産合理化をさらに進めるべきだと考え、資金繰りの厳しさにもかかわらず、最新の設備導入や自動化を推し進めました。さらに、社内全体でコスト削減に取り組み、材料費の低減や作業改善、不良品削減のための徹底した運動を展開しました。しかし、親会社の値下げ要求が続き、成果が十分に会社の利益に反映されない状況が続きました。
昭和40年にはオートバイの景気が回復し、一時的に売上が向上しましたが、利益は「赤字ではない」程度にとどまりました。賃金の上昇が会社の利益を圧迫し、再び合理化を進めざるを得なくなりました。さらなる努力にもかかわらず、外部環境の変化—たとえばベトナム戦争による対米輸出の減少—がS社に深刻な影響をもたらし、業界の不況がS社をさらに窮地に追い込んでしまいました。
状況が悪化するなかで、社長は持ち前の合理化努力を続けましたが、能率向上の取り組みだけでは会社を救えない現実に直面します。現場の改善に尽力しても業績は悪化し、どう打開すればよいか見当がつかない状況にまで追い詰められてしまいました。この苦境に立ち向かうためには、外部環境の変化に適応するための新しい経営戦略と柔軟な対応が必要です。
真の打開策は、「合理化」だけではなく、市場の変動に応じた長期的な視点を持った戦略と、業界の枠を越えた成長機会の探索にあるのかもしれません。
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