MENU

政策を転換し画期的業績をあげる

社長は、私の提案に耳を傾けていた。そして、話が終わると、しばらく考え込んだ様子でこう言った。「これまで、能率を上げることが会社の業績を伸ばす鍵であり、それこそが社長としての役目だと考えていた」。

「今になって、その考えが間違っていたことが明確になった。すぐに方針を転換し、新たな覚悟で会社を立て直す必要がある。君の提案には全面的に賛成だ。直ちに実行に移そう」。そう言って、社長は決断を下した。

まさに敬意を払うべき見事な決断だった。この選択が会社を救うきっかけとなったのだ。こうして、S社は大きな方向転換への最初の一歩を踏み出した。

会社を苦境に追い込んでいた季節的な減産が、結果として方向転換を後押しする追い風となった。方針の転換によって、マイナス要因が見事にプラス要因へと変わったのだ。

新たな営業活動は、S社に数々の新しい経験をもたらした。まず気づいたのは、世の中には想像以上に多くの仕事が待っているという事実だ。それまでただ一社の親会社に頼って仕事を得ていたことが、いかに浅はかな判断であったかを痛感した。同時に、その依存が自社の可能性を縛り、自主性を奪っていたことにも初めて気づかされたのだ。

さらに、多量生産品はどこでも同じように低い工賃で扱われており、新規で多量生産品の受注を獲得しても、業績の向上は期待できないという現実にも直面した。

この現実は、当初の見通しが正しかったことを証明するものだった。さまざまな課題や発見に直面しながらも、新規受注品の売上は着実に増加していった。

一方で、採算の合わない製品について行った値上げ交渉では、意外な成果が得られた。そのうちの一品については値上げが認められるという、まさに棚ぼたのような結果だった。多くの会社がその製品の返上を申し出ていたため、親会社も従来のように一方的な攻勢を続けることが難しくなっていたのだ。その結果、以降の値下げ要求の圧力は目に見えて弱まり、その影響は明らかだった。さらに、再び圧力が強まらないよう、「採算が合わない製品は返上したい」という申し出を折に触れて行う方針を立てた。

同時に、間接部門の削減も強引に進められた。この取り組みには、専務が異常なまでの熱意を注ぎ込んだ。目標は、直間比率を営業部門を除いて現在の70対30から、3年後には85対15にまで改善することだった。試行錯誤を重ねる中で、昭和42年2月には売上に占める新規受注品の割合が12%に達し、ついに2月の月次損益で黒字を達成するに至った。

昭和41年度の会計は2月で締めくくられ、多額の赤字が計上された。それでも、会社全体が確実に黒字基調へと転換しつつあり、次年度への明るい展望が見えてきたため、社長の心には一切の暗さが残らなかった。

さらに、深刻に懸念していた資金繰りも解決の兆しを見せた。土地を売却し、役員報酬を半額に棚上げするなど、あらゆる手段を尽くした結果、資金調達に成功し、何とか危機を乗り越えることができた。それも、業績回復のために当初予想していたよりはるかに少額の借入れで済んだのだ。しかも、金融機関が政策転換による業績回復を評価したからこそ、この融資が実現したのである。

わずか五カ月での、全く予想外の業績の好転だった。このような劇的な変化は、これまで多くの会社で何度も目の当たりにしてきた。業績が悪化し始めるとその勢いに加速度がつき、逆に好転し始めると、それがまるで嘘のように見えるほどの回復を遂げるという現象だ。S社もまさにその例外ではなかった。そして、昭和42年度の初頭、つまり4月には、素晴らしい収益成長が見込める製品の受注に成功したのである。

もちろん、この受注品は生産財だ。これを「めったにない幸運」と呼ぶほかに適切な表現は見当たらない。なんと、オートバイ部品の4倍もの付加価値生産性を持つ製品である。それに加え、発注先も従来の価格より10%安く仕入れられることを大いに喜んでいるという状況だった。

私は、さらにその会社から別の仕事を得るため、社長と相談のうえ、六カ月後に5%、一年後にさらに5%の値下げを条件として受注促進を開始した。この合計10%の値下げは、急成長製品であるがゆえに、数量の増加によって十分に埋め合わせが可能だと判断したからだ。また、新規受注を狙う他の製品についても、収益性が非常に高いことがすでに分かっていたため、この戦略に自信を持つことができた。

好調なときには、不思議と良いことが次々と重なるものだ。ある生産財メーカーからの引き合いに対し、どうしても忙しくて手が回らないため、高めの見積りを提示して断るつもりでいた。ところが、それでも構わないからぜひお願いしたいと懇願され、結果的に新たな製品がラインナップに加わった。この製品は、全て外注で賄っても十分に利益が出るほど採算性が高く、思いがけない追い風となった。

その間、オートバイ部品については、モデルチェンジを機に一部の採算性の低い部品を思い切って切り捨てた。そして、そこから生まれた余力を新規受注した高収益の製品に振り向けることで、さらに効率的な生産体制を築き上げたのである。

これら一連の政策を推進した結果、会社の業績は飛躍的に改善した。8月時点での概算利益により、前年度の大赤字をすべて解消することができたのだ。当然ながら、資金繰りは目に見えて楽になり、手元に残る受取手形の数も増加した。そして9月からは、支払手形の支払い期間を短縮する取り組みにも着手できるようになった。

こうした取り組みは、下請け業者との協力度をさらに高める方向へとつながっていった。昭和42年度の利益は、会社創立以来初めてとなる画期的な結果をもたらし、売上利益率が10%を超える可能性も見えてきたのである。

S社が好運に恵まれたのは間違いない。その幸運は、おそらく10年、いや20年に一度あるかないかというほどのものだったかもしれない。しかし、ここで重要なのは、「もし政策転換を行っていなければ、この素晴らしい幸運をつかむことは決してできなかった」という事実である。

幸運も不運も、単なる偶然の産物ではない。そこには、自らの考え方や努力が大きく関わっている。そして、もう一つ重要で見逃せない事実がある。それは、新たに受注した「収益性の高い製品」が決して能率的に生産されているわけではないということだ。それどころか、従来の製品と比較すれば、はるかに非能率な生産体制となっているのだ。

S社の画期的な業績改善:政策転換がもたらした奇跡

S社の社長は、長年抱いていた「能率向上こそ会社発展の鍵」という信念を改め、収益性と営業を重視する新たな方針へと政策を転換する決断を下しました。これによって、S社はまさに困難を好機に変え、経営の立て直しに向けた第一歩を踏み出すことができました。

新しい営業活動は、S社にとって様々な気づきをもたらしました。これまでのように親会社のみに依存してきた受注体制が、自社の成長を制約し、収益機会を見逃す原因となっていたことを痛感したのです。多量生産品の低収益性を認識し、収益性の高い生産財の新規受注を積極的に展開した結果、売上に占める新規受注品の割合が増加し、業績は好転の兆しを見せ始めました。

また、引き合わない製品の値上げ交渉も奏功し、予想以上の成果が得られました。S社は、以前のように一方的な値下げ要求に応じる必要がなくなり、交渉の主導権をある程度取り戻すことができたのです。同時に、間接部門の削減や資金繰りの改善も実施し、経営基盤が強化されました。

政策転換の結果、S社は新規の高収益製品の受注に成功し、驚異的な成長を遂げました。この製品はオートバイ部品の4倍の付加価値を持ち、収益性が非常に高かったのです。さらに、他社からも高収益の引き合いが舞い込み、こうした製品の追加が業績向上に拍車をかけました。旧来のオートバイ部品の一部をモデルチェンジを機に廃止し、その生産余力を新しい高収益製品に振り向けることで、経営効率も飛躍的に向上しました。

この一連の施策により、S社は前年度の赤字を全て埋め、資金繰りにも余裕が生まれ、受取手形の手持ちが増加するなどの好循環が生まれました。昭和42年度の利益は会社創立以来の最高を記録し、売上利益率も10%以上に達する見込みです。S社がこのような好運に恵まれたのは、単なる偶然ではなく、政策を転換し、新たな考え方と努力を実践した結果でした。

重要なのは、収益性の高い製品が、従来の「能率至上主義」ではなく、むしろ非効率に見える製造プロセスで生産されていた点です。収益性を重視し、効率を一部犠牲にすることで、真に価値を生み出す製品に集中できたことが、S社の劇的な回復と成功を導いたのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次