日々の業務はスムーズに進むことが少なく、次から次へとトラブルが発生し、混乱が絶えない。この混乱を解消しようと、多種多様なマネジメント思想や理論、システムが次々と生み出され、企業内に取り入れられてきた。
これらの理論は、企業内のあらゆる業務が管理されるべきだというニュアンスを含み、「きめ細やかな管理こそが優れている」という主張を展開している。
その結果、会社の中は管理一色の状態になっている。もしそれが経営に大きなプラスをもたらしているのなら問題はないが、実際にはわずかな利益を得る代わりに、大きな損失を招いているのが現状だ。
その損失は単なる人件費の増加にとどまらない。より深刻なのは、経営者に「マネジメントこそが事業経営の鍵であり、そのレベルを引き上げることが業績向上に直結する」と信じ込ませてしまった点だ。この思い込みが生まれた背景には、管理至上主義の罪深さがあり、それが経営全体に与えた悪影響を無視することはできない。
まず、あらゆる活動が報告されるべきだとされ、製造部門の作業日報や営業部門の営業日報はもちろん、極端な場合には購買日報や事務用消耗品の出庫日報まで作成される状況になっている。
かつて某社で工場長を務めていた際、完成品の日報を除くすべての日報を廃止したが、現場での不便は一切感じなかった。ちょうどその頃、企業診断を受けた際に診断員から「作業日報を出させないのは工場長としての怠慢だ」と批判されたことがある。その言葉に対し、「本人が不便を感じず、部下の負担が軽減される方法が、なぜ怠慢と言われるのか」と激しく憤ったのを覚えている。そもそも、その時点で生産性は向上し、不良品も大幅に減少するという実績を挙げていたのだから、日報の有無が問題ではないことは明白だった。
コンサルタントとして多くの企業を見てきたが、作業日報が有効に活用されている会社には一度も出会ったことがない。実際、作業日報を効果的に活用できる場面など、極めて例外的なケースに過ぎないのが現実だ。
セールスマンの営業日報も同じことで、提出させた後はハンコを押してファイルに綴じるだけで、ほとんど活用されていないのが実情だ。そもそも営業日報と呼ばれているが、その内容は営業活動の記録ではなく、セールスマンの行動を監視するための労務管理日報に過ぎない。しかも、その行動記録が事実かどうかもわからない状況で、わざわざ報告させることにどれほどの意味があるのか、大いに疑問だ。
本来、営業日報とはセールスマンが外部で得た情報を報告するためのものである。お客様の要望や不満、そして競合他社の動向、この二つが中心的な内容でなければならない。そして、その情報を基に、重要な兆候や課題を見つけ出すことを目的として書かれるべきものだ。それが本来の営業日報のあるべき姿であり、単なる行動記録で終わらせるのは本質を見誤っていると言える。
在庫管理というが、その本質は現物の管理を除けば、ほぼ外注や購買の発注と納期管理で決まるものだ。そして、その発注と納期管理は販売の動向に焦点を合わせたものでなければならない。単に在庫を減らすことだけを目的とした管理は、しばしば「売り損じ」という重大な機会損失につながる。販売の需要に基づいた柔軟でバランスの取れた在庫管理が求められる理由がここにある。
私が以前勤めていた某社では、工程管理の混乱を解消しようと社長が動き、専門のコンサルタントを招いて指導を受けた。三カ月もの間、常駐して調査を重ねた結果、分厚い「工程管理規定」が作成された。
その規定は一見すると非常に立派なものに見えたが、導入してみると状況はむしろ悪化した。300名規模の会社でありながら、規定の運用には20名以上の人員が必要となり、帳票類も15種類以上新たに増えてしまった。その結果、現場の負担が増し、混乱がさらに深まるという皮肉な結果を招いた。
何しろ、外注品の加工状況まで逐一記録しなければならず、納期が遅れた部品については遅延報告書を提出する必要があった。しかも、その外注品の加工状況や遅延情報は、報告書を書いている間にも変化していく。さらに、遅延を回復するための計画書まで作成しろという指示が出される始末だ。このような非効率な運用が現場を疲弊させ、もはや正常な判断とは思えない状況だった。
その遅延報告書と回復計画書は、社内の順序を経て最終的に社長の手元まで回り、社長の検印を受けてからようやく担当者に戻ってくるのに三日かかった。その間、遅延状況は当然変化しており、報告書はすでに無意味なものとなっていた。それでも担当者は、そのムダを理解しながらも文句を言いつつ作成を強いられていた。本来、遅延回復とは報告書ではなく、外注先への督促や集荷手配など、現場での迅速な行動によって進めるべきものだ。報告書に時間をかけることは、実際の解決には何の役にも立たない。
品質管理の思想についても、どうしても納得できない部分が多い。「品質は工程で作りこまれる」ともっともらしいことを言っているが、実際に行われているのは、すでに完成した製品を統計的な手法で調査し、その結果を記録するだけにすぎない。本来なら、「工程のどこで、どのように品質を作りこむのか」という具体的な方法を示すべきなのに、その核心部分には一切触れられない。結局、品質管理と称しているものが、出来上がったものを後追いで評価しているだけでは、現場にとって何の指針にもならない。
AQL(受入検査基準)というものも、実に奇妙な理論だ。これは、受入品に一定限度以下の不良が含まれている場合、その納入を認めるという考え方に基づいている。しかし、理論上その基準値内であれば不良品が混入することが当然のように予想されるにもかかわらず、その不良品をどのように扱うべきかについては一切言及されていない。本来、不良品をゼロに近づけることが品質管理の目的であるべきなのに、基準値を設けて納得するという姿勢には疑問を感じざるを得ない。
優秀な会社は、AQLのような理論に時間を割くことなく、「不良品と思われるものを発見したら即座に取り除く」というシンプルで実践的な指導を徹底している。これこそ、現場で真に機能する正しい品質管理の姿だ。不良品を許容する基準を設けるのではなく、不良品を根絶しようとする姿勢が、企業としての本質的な強さを示している。
S社では、「我が社の商品に一つでも不良があってはならない」という強い信念のもと、厳選された検査員による全数検査を徹底している。さらに、社長自らが検査済みの商品を抜き取り検査し、その品質を直接確認している。このような抜き取り検査であれば本物だと言えるし、品質に対する社長の姿勢も正しいと感じられる。不良を許容せず、責任者自らが品質に関与する姿勢が、顧客への信頼と製品価値を高めている。
多くの会社では、社内で動く品物に関しては伝票がその都度発行され、厳密に管理されている一方で、対外的な伝票類になると急にいい加減になることが少なくない。社内伝票は、たとえ処理がずさんでも会社としての実質的な損失を生むことはほとんどない。しかし、対外的な伝票類は取引の証拠となる重要な文書であり、誤りがあれば会社の信用を失墜させたり、直接的な損害を招く可能性が高い。それにもかかわらず、これらが杜撰に扱われている状況は極めて問題だ。
管理活動のために作成された原始伝票から、さまざまな統計が抽出され、それが「視覚化」という名目で次々とグラフ化される。線グラフ、棒グラフ、円グラフはもちろん、パレートグラフや三角グラフ、Zチャート、レーダーチャートなど、形式は多岐にわたる。しかし、私に言わせれば、これらのグラフの多くは、わざわざ視覚化する必要はない。数表をしっかりと読めば十分に理解できる情報であり、わざわざ手間をかけて作成するのは無駄でしかない。こうした過剰なグラフ化は、むしろ効率を低下させるだけだ。
その一方で、事業運営に本当に必要なグラフ、例えば売上年計グラフやランチェスターグラフ、ランチェスターマップ(これらについては後述する)のようなものは、なぜか存在しない。皮肉なことに、重要性の低いどうでもいいグラフばかりが作られ、本当に役立つ視覚化は行われていない。必要なデータを視覚化することこそが管理の本質であるべきなのに、現実はその逆をいっている。このアンバランスさは、管理活動のあり方を根本的に見直す必要性を示している。
仕事のやり方にも次々と新しい工夫が登場しているが、時には行き過ぎた例も見られる。例えば、ワンライティングシステムと称して、一度の記入で複写枚数が16枚にもなるものを見たことがある。また、伝票式会計を採用すれば伝票ファイルが急激に増加し、一品一葉式を採用すれば顧客サービスに大きな支障をきたす。これは、仕事の管理上の都合を優先するあまり、顧客本位の姿勢が失われていることを意味している。本来なら、管理は顧客サービスを支えるための手段であるべきなのに、それが目的化してしまうことで、現場が歪められているのだ。
以上のような管理方式や新しい工夫を取り入れると、必然的に管理部門の業務量が増加し、それに伴って人員やコストも膨れ上がっていく。これを抑制しようとして、職務分掌規定を作成したり、定員制を導入しようとする。しかし、この定員制も次第にエスカレートし、結局は「MIC計画」といった新しい名前を掲げるだけで、実態は従来のやり方を形を変えて引き継ぐだけのものになる。まさに「新しい皮袋に古い酒を入れる」という状況で、本質的な改善にはつながらない。
職務分掌規定を作成すると、規定された分掌事項以外の仕事に誰も手をつけようとしなくなり、セクショナリズムが蔓延するだけになる。このような状況では、各部門が自分たちの範囲だけを守ることに固執し、組織全体として柔軟性を失ってしまう。その結果、外部環境の変化に迅速かつ適切に対応することができず、会社全体の競争力が低下する危険性が高まる。規定に頼りすぎる管理は、むしろ組織の硬直化を招く元凶となりかねない。
定員制を採用した結果、労働組合に「科学的に算定された人員を減らすのは労働強化だ」と反発され、身動きが取れなくなった会社を知っている。MIC計画も、結局は定員制の焼き直しに過ぎない。
提唱当初は少し話題になったが、今ではどうなっているのか定かではない。何かと原価が高くなる中で、原価計算や原価管理制度を採用する流れになる。しかし、これらの取り組み自体が、結果的に原価を押し上げる要因になっているのは皮肉なことだ。
こうした取り組みは、社内に混乱を引き起こし、最終的には社長の判断を誤らせる原因となる。そして、費用増大に拍車をかける最後の一撃が、コンピューター導入という形で訪れるのだ。
コンピューターは単なる計算機にすぎない。そのため、低次元な計算を高いコストで行う覚悟が必要だ。それだけならまだしも、問題なのは「高い費用がかかるのだから活用しないのはもったいない」という発想で、無意味な計算を次々と行わせ、資料と称する紙くずの山を生み出すことだ。これでは、かえって効率を損ねるばかりである。
紙くず一枚あたりのコストは確かに下がるかもしれないが、総費用が膨れ上がることには全く無頓着である。しかし、事業運営において本当に重要なのは、「単位あたり」ではなく「総額」に目を向けることだ。総費用が増えるような取り組みは、たとえ効率的に見えても本質的には誤りである。
正直なところ、コンピューターを本当に有効活用し、その導入費用を回収できている会社を見たことがない。良く言えば「費用のかかる高級玩具」、皮肉を込めれば「紙くず製造機」といった印象だ。それだけの投資に見合う成果を生み出していないケースがほとんどである。
その「紙くず製造機」から無駄な資料を生み出す仕組みを、どうやら「MIS(マネジメント・インフォーメーション・システム=経営情報管理)」と呼ぶらしい。名前こそ立派だが、実態は無意味なデータの山を作り出すだけのシステムにすぎない。
MISによって企業内部の過去データを作成しても、それが事業経営に役立つことはほとんどない。一部に有用なデータが含まれていることは確かだが、それらは高額な費用をかけてコンピューターで計算する必要のないものばかりだ。結局、膨大なコストをかけたところで、得られる成果は極めて限られている。
事業経営に本当に必要な情報は、次元の高い、まだ数量化されていない外部の質的な情報である。しかし、このような情報は数量化されていない以上、コンピューターで処理することはできない。そのため、コンピューターに頼るだけでは、事業に必要な本質的な判断を支える情報は得られない。
以上、内部管理の無意味さについて述べてきたが、ザッと書いただけでもこれだけの量になってしまうほど、無駄が多いのが現状だ。そして、それらの一つ一つの取り組みに全て費用がかかっている。この膨大な無駄が、企業全体の効率を下げているのは明らかだ。
こんなことを書いた理由は、かつて私自身が熱心なマネジメント信奉者だったからだ。当時は、マネジメントの理論を忠実に実行すれば、会社の業績が向上するものと信じて疑わなかった。自分の経験から、その思い込みがいかに誤っていたかを痛感したからこそ、これを書かずにはいられなかった。
しかし、現実は厳しかった。これらの理論を忠実に実行すればするほど、現場の実情から乖離し、何一つ解決することができなかった。その失望と挫折から、私はマネジメントへの盲信を捨て、「アンチマネジメント」の思想を抱くに至ったのである。
経験を重ねる中で気づいたのは、世間で言われるマネジメントとは、事業経営そのものを扱うものではなく、企業内の人々の日常業務に関する低次元の問題に焦点を当てたものであるということだった。そして、それらの取り組みが生むのは、実質的な成果ではなく、ただ費用の増加だけであることを痛感した。
本書を手に取る社長諸兄に、マネジメントの実体を正しく理解していただきたく、ここで少し棚卸しを試みた。社長諸兄には、ぜひ「マネジメント病」から脱却し、真に効果的な事業経営に取り組んでいただきたいと願っている。
正しい事業経営の視点から見ると、管理費に対する正しい考え方は「最小限の管理」に尽きる。理想を言えば、管理は「ゼロ」であるべきだ。管理がゼロであれば、当然管理費もゼロになる。つまり、必要最低限の管理だけを行い、それ以外の無駄な管理活動を徹底的に排除することが、正しい経営のあり方と言える。
とはいえ、現実において管理を完全にゼロにすることは不可能だ。そこで重要なのは、必要最小限の管理だけを「仕方なく行う」と割り切ることである。その最小限の管理とは、「管理を行わなければ、かえってロスが大きくなる場合」に限定すべきだ。それ以外の管理活動は徹底的に排除し、本当に必要な部分だけに集中するのが賢明な経営の姿勢である。
日常業務の中で、原始記録は自然に生じるものだ。しかし、これらの記録は、会計的な処理に必要なもの以外では、「上司が明確に要求するもの」と「他部門の責任者が必要とするもの」に限定するべきである。ただし、この方針を管理者に指示しても、それだけでは実現しない。記録を必要最小限にするための仕組みや文化を、組織全体で構築する必要がある。
もし、この要求に応えられる管理者がいたとすれば、それは極めて稀な例外と考えざるを得ない。だからこそ、社長自らが帳票類を精査し、どの記録が本当に必要で、どれが不要かを見極めなければならない。これは、経営の方向性を誤らないために不可欠な責務と言える。
その具体的な方法として、ある日時を指定し、すべての伝票類を一箇所に集め、自ら一つひとつ確認することだ。これを実行すると、どれほど無駄な帳票類が存在しているかがはっきりと分かる。そして、不必要な帳票類については廃棄を命じるべきである。しかし、この過程では管理者や担当者から激しい反対が予想される。彼らは、帳票を廃棄すれば「自分たちの職務責任を果たせなくなる」と主張するからだ。ここで重要なのは、その反対に惑わされず、本当に必要なものだけを見極める判断力である。
このような場面で反対に屈してしまえば、すべてが元の木阿弥になる。だからこそ、社長は断固として、「もし職務が果たせないのであれば、それで構わない。廃棄を命じたのは私であり、その責任はすべて私が負う」と明言しなければならない。この強い姿勢こそが、無駄を排除し、組織を効率的に運営する第一歩となる。
ムダな帳票類の廃棄を命じられた管理者が「ハイ」と一言で従うことは、自分たちがこれまで無駄な仕事をしていたことを認めることに等しい。それは、管理者としての自尊心やプライドに関わる問題であり、簡単には受け入れられない。だからこそ、彼らは反対し、自らの正当性を守ろうとするのだ。これは、人間心理として自然な反応とも言えるが、組織の変革において乗り越えるべき最大の障壁でもある。
ムダな帳票類の廃棄を社長の指示で行えば、もし失敗すればそれは社長の責任になり、成功すれば「管理者の努力の成果」とされる。管理者は、これを無意識に計算して反対していることも多い。この心理を正しく読み取れなければ、人をうまく動かすことはできない。社長には、この心理的な駆け引きを理解し、適切に対処する洞察力と決断力が求められる。
上司への報告書を廃止する指示は実に簡単だ。「報告しなくてもよい」の一言で済む。これを「そんな細かなことまで社長がやれるのか」と思うかもしれないが、これは一年に一度実施すれば十分だ。社長の責任として帳票類を見直し、「今後、新たな帳票類を作成する際は、どんなものであれ事前に社長の承認を得ること」と明確に伝えておく。これにより、不必要な帳票の乱立を未然に防ぐことができる。
次に取り組むべきは、各種のグラフ類だ。「視覚化」によって理解を容易にするという考え方は理解できるが、本当にグラフ化する価値があるのは、「年計グラフ」「ランチェスターグラフ」、そして「ランチェスターマップ」程度である。それ以外のグラフは、わざわざ作成せずとも数表だけで十分に事足りる。無意味にグラフを乱用するのは、むしろ効率を損なうだけだ。
会社によっては、先に挙げたもの以外にもグラフ化が必要な場合があるかもしれない。そのため、必要なグラフを事前に明確にし、「グラフ化してよいもの」の一覧表を作成することが望ましい。この一覧に含まれないグラフの作成は、禁止すべきである。これを怠ると、無意味なグラフを大量に作り、「グラフ魔」が色分けまで凝った無駄な資料を量産して楽しむような状況になりかねない。こうした事態を防ぐには、明確なルールの設定と徹底が不可欠である。
多くの会社で見られる「統計」の氾濫も問題だ。その原因の一つは、「経営計画書」が存在しないことにある。経営計画書があれば、経営の方向性が明確になるため、統計はごく限られた必要なものだけで済む。統計の内容も、「何を作るべきか」をあらかじめ明確に決めておくべきだ。目的のない統計作成は無駄を生み出し、時間とコストを浪費するだけである。
このように、一般的な基準を必要に応じて設定し、それをもとにコントロールするのが適切だ。その上で重要なのは、一般的に推奨される「ABC管理」方式を推進することである。ABC管理は、重要度や優先順位に基づいて資源を配分する方法であり、これを効果的に活用することで、無駄を削減し、経営資源を最適化することが可能になる。
これは、私が提唱する「95%の原理」に基づくものだ。この原理とは、「売上高の95%は全商品または得意先の半数から生まれ、残りの半数の商品または得意先はわずか5%の売上にしか寄与していない」という偏りの法則を指している。要するに、事業の大部分を支える要素は限られており、リソースを集中させるべき対象を見極めることが重要だということである。
また、「商品の原材料費の95%は、全部品のうち半数の部品で占められており、残りの半数の部品が占める割合は、わずか5%にすぎない」という偏りも存在する。このような偏りは、社会現象に特有の性質であり、多くの場面で見られるものである。つまり、限られた要素が全体の大部分を支える一方で、残りの多くがわずかな影響しか及ぼさないという構造である。
この現象は、「大きな成果を生む活動にはわずかな費用しかかからず、大半の費用はわずかな成果しか得られない活動に割り当てられている」ということを示している。
自然の流れに任せれば、右のような状態に陥る。しかし、明確な方針を打ち出すことで、全体の成果のわずか5%に費やされるコストを適切にコントロールする必要がある。
あるサービスステーション(ガソリンスタンド)では、毎月の商品別売上高と粗利益の統計を作成していた。その内容はA3判の用紙10枚にわたり、約250種類の商品が含まれていた。この作業には女子事務員2名が携わり、毎月2週間もの時間を費やしていた。
しかし、最初の1枚に記載されるガソリン、軽油、オイルだけで、全体の粗利益の95%を占めていた。一方、残りの9枚に記載されるタイヤ、バッテリー、アクセサリー(TBA)などの商品群は、わずか5%の粗利益しか生み出していなかった。
この場合、粗利益の95%を占める部分だけを商品別に分類し、残りは「その他」として一括管理すれば十分である。
さらに一歩進めるなら、年商額を「ABC分析」で分類して実態を把握し、その後は個別商品の粗利益率を毎月抽出調査するだけで十分だ。
下位5%の商品については、成り行きに任せるか切り捨ての対象とする。また、下位5%の得意先に対しては、「四ない主義」(訪問しない、値引きしない、掛売りしない、配送しない)の適用を検討していく。
こうした個々の活動のコントロールを仕上げる最終段階として、管理部門の人員を大幅に削減することが挙げられる。具体的には、削減の目標人数と期限を設定し、その人数で業務を遂行できる方法を工夫させることが求められる。
この取り組みには一定の時間を与える必要があるが、断固たる決意で実行することが成功の鍵となる。場合によっては、コンピューターの使用をやめるほうが効率的であることも少なくない。このような徹底した見直しを行って初めて、管理費の削減は実現可能となる。
特に、総務や経理の人員が過剰な会社は少なくない。守衛、寮の管理人、給食要員など、事業経営にとってそれほど重要ではない職務については、優先的に削減すべき対象とするのが適切である。
守衛業務は夜間の警備だけに限定し、昼間は女子事務員に守衛所で業務を兼務させれば十分である。寮や給食といった仕組みは、人手不足だった時代の名残に過ぎない。このような無駄な労務管理を必要と考える経営者自身の意識こそ、真っ先に変えなければならない。
無駄な労務管理の典型として「社内報」というものがある。ああいったものを発行しても、会社自体がしっかりしていなければ、社員にとっては何の喜びもない。自画自賛のような記事や、代わり映えのしない社員投稿が並ぶだけの内容であることがほとんどだ。こんなものは廃止し、その分の費用と労力を削減すべきだ。
どうしても「社内報」が必要だというのなら、内容を次元の高いものにするべきだ。具体的には、社長自身の経営姿勢や会社の未来像、顧客サービスに対する基本的な考え方、さらに顧客サービスに関する社員の優れた行動例とその顕彰といった記事を中心に据えるべきだ。しかし、これでもかなりの譲歩と言える。実際、経営計画書がしっかりと整備され、それを徹底する努力がなされているのなら、そもそも社内報は必要ない。
社員が本当に望んでいるのは、社内報があるような冴えない会社ではなく、社内報などなくても成果を出し、信頼される優れた会社だということを理解してもらいたい。
最後にひとつ、明確にしておかなければならないのは「直間比率」に関する考え方である。この場合の「間接人員」とは、管理的な役割を担う人員を指しているのであり、それ以外を含めるのは誤りである。この正しい視点に基づき、間接人員は少ないほど望ましいという基本原則を忘れてはならない。
間接人員の中にも、販売活動や開発活動に従事している人々については、「直間比率」の考え方を適用すべきではない。販売や開発といった活動は、管理活動とは本質的に異なる性質を持っているからだ。これらは直接的に価値を生み出す活動であり、単純に間接人員として扱うべきではない。
管理活動は「社内」の人々を対象とした活動であるのに対し、販売や開発といった活動は「外部」、つまり市場や顧客を対象としている。そのため、これらの活動は管理とは性質が異なり、当然ながら異なる視点で捉えなければならない。
管理的費用については、業務の円滑な運営を支えるために必要とされる費用ですが、過剰に導入されるマネジメントの理論やシステムはかえって経営を混乱させる要因となり得ます。会社の中で「管理」が目的化すると、本来の事業活動に対するコストが増え、管理のための管理が蔓延しがちです。
管理的費用を適正化するためのポイント
- 報告書・日報の適正化
多くの会社で導入されている作業日報や営業日報は、提出させることが目的化しており、実際にはほとんど利用されていないことが多いです。これらの報告書は業務の効率向上に役立つ場合に限り、最低限にとどめるべきです。営業日報などは、セールスマンが外部情報を共有し、事業の方向性に影響を与える情報に特化した内容に絞ることが効果的です。 - 必要最小限の在庫管理
過剰な在庫管理もコストを押し上げる原因です。在庫は「現物の管理」を中心とし、販売活動に基づく発注・納期管理が中心です。過度な在庫圧縮は、売り損じや機会損失を生むため、顧客の需要に応えることを重視した在庫管理が理想的です。 - 管理システムやグラフの合理化
グラフ化や視覚化に多くのリソースを割く企業もありますが、重要なのは本当に必要な情報のみをグラフ化し、過度な可視化を避けることです。売上年計グラフや重要な顧客・商品分布など、本当に判断材料となるものに絞り、他の統計やグラフは極力減らすべきです。 - 人員・費用の削減と業務の効率化
過剰な管理部門の人員配置は、経営の柔軟性を損ないがちです。守衛、寮の管理、給食など直接の収益には関係しない職務は優先的に削減し、費用の最適化を図ります。また、ITやコンピューターなどのシステムも必要以上に利用することなく、業務効率化を念頭に最小限の費用で運用することが肝要です。 - 管理費用の「最小限主義」
管理的な活動は最小限にとどめ、基本的には「管理しないとロスが大きくなる活動」にのみ管理コストを充てることが理想です。ムダな帳票や報告書を廃止し、管理活動を省力化することで、経営に集中できる環境を作り上げます。
管理部門の考え方と適正な直間比率
管理活動は、社内の業務を支えるものとしての役割を果たしますが、企業成長には直接結びつかないため、管理部門にかかる費用は「必要最小限」に留めるべきです。また、間接人員と直間比率は、単純に低ければよいというものではなく、販売や開発に関わる人材については直接事業に貢献する活動として管理とは分けて考えるべきです。
正しい管理費の取り扱いにより、事業経営の効率と収益性を最大限に引き出すことが可能です。
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