生産性
生産性というのは、成果に対する努力の割合いのことである。生産性向上というのは、より少ない努力で、より大きな成果をあげることである。
算式であらわすと、生産性=産出高(アウトプット)÷投入高(インプット)ということになる。
算式はできても、実際にこれを計算し、測定できるのは、量的な生産性だけであって、質的な生産性の測定は、この算式ではできない相談である。その量的な生産性の計算も、けっして完全なものではなく、欠陥もあれば限界もある。
それにもかかわらず、なおわれわれはこの算式をつかって、生産性向上のための方策を発見できるし、生産性の目標をかなり明確に示すことができるのである。
では、企業の産出高とは何であり、投入高とは何であろうか。企業は材料を買い、これを加工して売るという活動をしている。
いま五〇〇万円の材料を買って、これを加工して一、〇〇〇万円で売ったとすると、加工賃が五〇〇万円ということになる。
式にしてみると、材料加工費売上げ500万円+500万円=1000万円ということになる。この加工賃の五〇〇万円が会社の本当の収入なのである。
これこそ、企業が生み出した経済的価値であり、企業の産出高なのである。これを付加価値とよぶ。
企業が、外部の価値(つまり材料)に付け加えた経済的価値だからそうよぶのである。
外部から買入れた材料は、企業の外部でつくられた価値であるから、これを売上げから引いてしまわなければ、ほんとうに企業が生み出した価値はわからないのである。
商社の場合には、売上げと仕入値との差額が付加価値である。粗利益とか差益という言葉が一般につかわれている。
材料費といったのは、説明の都合上外部価値を代表させたのであって、外部価値というのは、材料費、購入品費のようなものと、外注費などのサービスを合わせたものである。
ひっくるめて、「外部価値」という。
前の例にもどって、五〇〇万円の付加価値をうるために、人件費二〇〇万円と経費二〇〇万円を費したとするならば、付加価値人件費経費利益500万円-(200万円+200万円)=100万円となる。
この人件費と経費は、会社の内部で費されたものなので、「内部費用」という。この内部費用が、「企業努力の原価」なのである。これが総投入高である。
付加価値を文章によって定義づけすると、「付加価値とは、企業が製品またはサービスを売って得た総売上額から、その売上げのために外部から買入れた原材料またはサービスの総買入額を引き去った額である」となる。
ところで、外部価値と内部費用は特性が違う。この特性を知っておくことが、生産性向上に大切なのである。
外部価値は、売上げに正比例して増減するという特性をもっている。売上げが三割増せば外部価値も三割多くなり、売上げが二割減少すれば外部価値も二割少なくなる。
このために、外部価値のことを「変動費」または「比例費」という。内部費用は売上げの増減に比例して増減しない。
売上げが二割上がっても、三割下がっても、内部費用はごくわずかの増減はあっても、ほぼ一定の額である。そのかわり、期間に比例して増減する。
期間が二倍になれば内部費用もほぼ二倍かかる。
このように、売上げの増減に比例して増減せず、期間に比例して固定的に発生する費用なので、「固定費」または「非比例費」という。
ここで前掲の生産性の算式にもどろう。企業の生産性はつぎのように表現できる。
生産性=(産出高÷投入高)=(付加価値÷固定費)この算式は割算である。
だから答えを大きく、つまり生産性を向上させるには、一分子を大きくする……付加価値を大きくする二分母を小さくする……固定費を小さくするようにすればよいのだ。
まず第一に、付加価値を大きくすることについて考えてみよう。
その方策として、一売上げを伸ばす二材料を安く買う三材料の歩留りを向上する四VAなど、設計変更や標準化による材料費率の低下五外注単価をたたくというようなことがあげられる。
しかし、これらの方策は、初めのうちは効果があっても、すぐに限界にぶつかってしまう。
たちまちのうちに増大する内部費用をまかなうことができなくなるのは目にみえている。
それにもかかわらず、従来の能率学は、この現実に目を向けようとしない。というよりは、ぜんぜん気がついていないのだ。
そして、馬車馬みたいに能率化にうつつをぬかし、低収益に泣く。その低収益の原因は能率化がたりないのだ、というわけで能率化に熱中する。
このような、まったくの誤った考え方にこり固まっている。いや、こり固まらせた能率の先生がたに対して、筆者はかぎりない公憤を覚えるのである。
能率化によって継続的に必要付加価値を生み出すことは、もともとできない相談なのである。
継続的に必要付加価値を確保する道は、たえず収益性のよい製品をとり入れるとともに、収益性の悪い製品を切ってゆくという、構造的な変革なのである。
あえて革新の項との重複をもかえりみず、ここでも同じ主張をするのは、正しい考え方があまりにも理解されず、能率のとりこになって、泥沼にはまりこんでしまっていながら、なおもその誤りに気がつかない企業が多すぎるからなのである。
第二に、内部費用を小さくすることである。
ところが、これの絶対額を小さくすることは、きわめてむずかしい問題である。
それどころか、非常な勢いで増加してゆくのが普通である。そこで、何とかしてこれを食いとめようと、いろいろな手が打たれる。
いわく「経費節減」、いわく「直間比率の改善」などである。
しかし、ほんの一部の企業を除いて、それらの手がほとんど功を奏していない。その原因は何であろうか。
一つは費用の実態をよく知らないことと、打つ手が技術的すぎるというところであろうか。
まず、費用というものは、費用の絶対額うんぬんではなく、成果対費用の比率が大切だということである。
経費をいくら少なくしても、それが付加価値増大を阻害するようなことになれば、何にもならないのである。この意味で、まず重視しなければならないのは、未来事業費である。
未来事業にたずさわる人間と経費は、革新の目標に対してうんぬんされるべきであって、たんなる経費節減という考え方で処理してはいけないのである。
不用意な未来事業費の節減は、企業の将来を危くする。ところが、現実には随所でこの危険な経費節減が行われているのだ。
ここにも指導理念の欠陥がみられるのだ。まったくやりきれない気持ちになる。マネジメントの指導理念には、なんとしても欠陥が多すぎるのである。
本当は、他の経費を極力節約して、浮いた費用を未来事業に投入する、という態度でなければならないのである。
未来事業費以外の経費をどのように考えたらいいだろうか、経費には統制可能な費用と統制不能な費用がある。家賃・地代とか、公租公課などの統制不能費は節約のしようがない。
しかも統制不能費は、経費のうちの相当の部分を占めているのである。残る統制可能費は、費目の数が多く、一つひとつの費目の金額はあまり多くない。
したがって、節約してもたいした金額にはならない。だから、「経費一割節減」なんて目標を気安く打ち出してみても、とてもできる相談ではないのだ。
ある倒産会社で、倒産二年前に社長が打ち出した「業績回復計画」はほとんど一〇〇%経費節減で、鉛筆一本までうるさく節約を説き、封筒を裏返して使うというキメの細かいものであった。
しかし、肝心の付加価値増加のほうは何もなかったのである。
こんな会社は倒産しないほうが不思議なのである。本気で経費節減による経済的成果を期待するやつはバカだ。
経費節減というものは、日常の「しつけ」としてやるものなのだ。不景気になると経費節減が流行する。
しかし、そんなものは人のうわさと同じで、七五日すぎたら、だれも気にかけなくなるのだ。
経費は節減するものではなくて、「削減」するものなのだ。削り取ってしまわなければダメなのである。
削り取るというのは、ある活動そのものをやめてしまうということである。むろん、これによる経費の節約額それ自体は、たいしたものではない。
それよりも、むしろ、つぎに述べる間接人員の削減に密接に関連し、その面で大きな成果を期待できるがゆえに大切なのである。
幸か不幸か、企業体には削り取ってもさしつかえない、というよりは削り取ってしまったほうがよい活動がたくさんある。
日常業務の中の相当な部分は、事後処理業務である。
事後処理業務は、どのようにりっぱに処理しようと、すでにつくられた数字を、ただの一円でも変えることはできないのだ。
そんなことよりも、われわれは、よい数字をつくり出す活動にこそ精力を注ぐべきなのだ。
そのほか、統計、報告書など、不必要なものや用途の不明なもの、ごくまれにしか起こらない誤りをチェックするためのものなど、なぜこんなつまらない記録をとっているのかわからないものが、驚くほどたくさんあるものだ。
中には、「責任のがれのための記録」もある。しかも意外に多いのだ。
もう一つ、「上役が要求しない報告書」がある。
これは相当念入りにつくられているのが普通である。いかに念を入れてつくろうと、相手が見てくれないのでは、ないのと同じではないか。
とにかく、削り取ってもいい活動は、想像以上に多いのだ。これにメスを入れるのだ。
この場合に、技術的なアプローチは厳禁である。伝票、帳簿、報告書、統計表、管理図などを集めて、ながめながら考え、要不要を判定してゆくのが最もよい。こうして、不要なものをバサバサ切ってゆくのだ。
これができないような幹部は、その資格を疑われても仕方がないであろう。
もっともらしい近代的管理手法や制度と称するものほど、不要なものが多く含まれている公算が多いことを心得ておくべきであろう。
不要な活動の削減は、間接人員の削減に通ずる。わが国の企業は、なんといっても間接人員が多すぎる。
これが、アメリカからきたマネジメントの手法を導入したことによる場合が多いのだから、何のためのマネジメントなのかわからない。
いりもしない制度や統制を、もっともらしい理由をつけて導入し、導入しすぎて間接人員が多すぎてしまったから、それを削るのに、こんどは「職務分析をやれ」というのだ。
まったくあきれかえった話である。
職務分析をやっても、九〇%まで間接人員の削減は失敗するのだ。職務分析をやっても、人員を節減できるというデータはまず出てこない。
本人が自分の仕事を調査表に書くかぎり、自分に都合のよい書き方をするにきまっている。
つまり、勤務時間いっぱいに仕事がある、という書き方をするのだ。調査の専門屋さんは、まず第一に、ここで人間の心理を知らずに誤りをおかす。
つぎに、それを分析し、改善して少数の人間ですませる計画をたてれば、当事者から猛反対を食うにきまっている。
それを黙ってのむことは、いままで非能率な仕事のやり方をしていて、余分な人間をかかえこんでいた、ということを自分で認めたことになるからだ。
これが人間の心理として当然なことなのだ。このへんのところになると、能率屋も考えなければ、人間関係論者もふれていない。まったくの空白地帯になっているのだ。
これだけでなく、人間の心理を無視した空白地帯が、現在のマネジメント論の中には、随所にみられるのだ。そして、それがいろいろな混乱をひき起こしているのだ。
間違いだらけ、欠陥だらけ、空白、矛盾、そのようなものに満ちているマネジメント論を、われわれは無批判に信用しすぎる。
そして、うまくいかないのは、当事者や上司に理解がない、というのだから困ったものである(拙著『マネジメントへの挑戦』はこれをついているのだ)。
マネジメントの理論は、その本質は経験の理論なのだ。すぐれた結果を生んだ理論のみが正しいのであって、学問の体系なんかどうでもよいのだ。
ましてや、現在のマネジメントの理論の大勢を占める観念論では絶対にないのである。
いまや、伝統的なマネジメント論は、変転する客観情勢に対処してゆかなければならない企業体にとって、むしろ、じゃまになってきた。
全面的に再検討というよりは、すて去る時期にきているのだ。そして、真に経営のためになる、新しいマネジメントの理論を築きあげるものは、実践家以外にはないのだ。
幸いなことに、そのすぐれた理論が、実践家によって着々と築かれつつあるのは心強いことである。
話を本題にもどそう。……間接人員の削減の目標は、人件費の目標からきまるのであって、職能の分析からきめるのではないのだ(第4章で詳述)。
きびしい現実は、相当なムリを要求する。ムリでもなんでも、それでやらなければならないのだ。
ムリな目標人員で、必要な仕事をするにはどうしたらいいかについて、考え抜き、やり抜かなければならないのだ。当然のこととして、「やめてしまう活動」が出てくる。
これが経費削減のところで述べたことなのである。
トップまたは幹部は、これを部下にやらせるときに、「これはもともとムリなのだ。しかし、ムリであろうとなかろうと、これをやらなければ生き残れないのだ。そして、君ならばこれができると思っている」という説得をするのだ。
上司がムリだと自ら認めているのだから、下のものはムリだとはいえない。
そして、それをやりとげることは理屈ではないのだし、ムリをやりとげたら、それは当人の努力の賜ということになるのである。
これが人使いのコツの一つなのだ。
そして、これはたくさんの実績に裏づけられている説得法なのである。
筆者は自分のコンサルティングの場合には、「もしも、その人数でできなければ、私のところへ申し出てもらいたい。どうしたらできるかを、いっしょに考えましょう」ということにしている。
その結果は、私のところへ申し出る人はほとんどいないのである。
生産性の目標を設定し、測定するときに、細分していろいろな尺度を使うほうが便利である。
その主なものをあげると、・総資本生産性=付加価値÷総資本・有形固定資産生産性=付加価値÷有形固定資産(建物、装置、設備などに分けられる)・労働生産性=付加価値÷人員または労働時間(全員、直接員、間接員などに分けられる)・賃金生産性=付加価値÷賃金(全員、直接員、間接員などに分けられる)というところであろうか。
もしも、右記以外の生産性を測定したい場合には、測定したいものを分母にすればよい。
右記のうち、有形固定資産については問題がある。有形固定資産には減価償却がある。そのためにいろいろの説が出てくる。
簿価にするのか、取得価格にするのか、それとも時価が正しいのか、ということである。これを論議していると際限がない。
そこで生産性という面から考えて、取得原価をあてるのが比較的無難であろう。固定資産の利用価値は、減価償却額ほどは減少しないし、時価の算定はなかなかむずかしいからである。
むろん、取得原価にも欠陥がある。一〇年前の一万円と現在の一万円では、実質価値が違うからである。だから、あまり古いものについてはやはり矛盾が出てくるからである。
有形固定資産は、その総額だけでなく、設備額を入れれば設備生産性の測定ができる。労働生産性や賃金生産性についても、直接員や間接員に分けて測定すると、いろいろな情報が得られる。
たとえば、労働生産性について、直接員と間接員を分けてみると、直接員の生産性は上昇しているけれども、間接員の生産性は落ちている、という現象をよく見かけるのである。
いろいろな管理手法を導入しても、それが生産性上昇にあまり貢献しないと、こういう現象が起こるわけである。
いわゆる管理過剰症である。管理は密度を高めればそれでよい、というものではない。
少なくとも従業員一人当りの生産性を、賃金上昇の半分くらいはまかなえるのでなければ、管理などはやらないほうがよいのだ。
さらにそのうえに、間接員の生産性自体が上がるのが本当なのである。
そこで、これらの生産性は、たんなる絶対値だけの分析だけでなく、三年間くらい行ってそれを指数化し、傾向をみることが必要なのだ。
絶対値は、他社との優劣比較はできても、たんにそれだけである。大切なことは、それがどのような傾向にあるかということであるはずである。
絶対値は悪くとも、それが上昇傾向にあれば心配はないし、絶対値は良くとも、下降傾向ならば危険なのである。
最近の企業の生産性を、前掲の四つについて分析してみると、労働生産性のみ上昇して、総資本、有形固定資産、賃金の三つの生産性は下がっているという場合が多いことに気がつく。
これは、主として設備投資によって労働生産性が上昇しているということであり、それにもかかわらず、賃金の上昇を吸収するだけの生産性上昇は実現していないということである。
これは、おそろしいことである。賃金生産性が下降してゆく傾向を食いとめなければ、それは倒産に通ずるからである。
労働生産性のうち、最もよく使われるのは賃率(chargerate)である。
賃率とは、直接工があげる単位時間当りの付加価値である。賃率は、つぎの三つについて考える必要がある。
- ・損益分岐賃率=単位期間に必要とする内部費用÷分子の期間の直接工の実際総工数
- ・必要賃率=(単位期間に必要とする内部費用+必要利益)÷分子の期間の実際総工数
- ・実際賃率=特定期間(または特定製品)に上げた付加価値÷分子の付加価値を上げるために投入された工数
右の算式について、若干気をつけなければならない点をあげよう。
まず、たんに「賃率」というだけでは、三つの賃率のうちのどれを意味しているのかわからない。
他人、特に他社の人びとと話をする場合には、「どの賃率なのか」をあらかじめ確かめてから話を進めないと混乱する。
さらに、内部費用の定義づけについても、具体的に費目をあげて確認をする必要がある。
分母の投入工数についても、生産性測定の場合は、無操業、無稼働時間を含む、つまり賃金支払いの対象となる時間とし、工賃見積りの場合は稼働時間のみとしたほうがよい。
これは稼働時間を稼働率で割って工数を出すという二段計算にするという意味である。
賃率は、従来は主として工賃見積りに使用されている。
そして、いろいろな混乱を起こしているのである(拙著『マネジメントへの挑戦』参照されたし)。
しかし、本当の使い方は、前向きに生産性の目標を設定し、あるいは測定して、付加価値増大のための道具として使うことなのである。
これには、製品別、部門別、そして間接部門の生産性についての分析を行うのがよい。まず、製品別の生産性分析である。
これは〈表1〉のような形にまとめるのがよいだろう。この分析表から、われわれは製品混成の目標を設定するための情報を得ることができるのである。
まず、付加価値の絶対額とその順位をみて、企業への貢献の度合いを知ることができる。さらに、その貢献の効率を知るために、
一必要賃率以上をあげている健康製品
二損益分岐賃率以上だが、必要賃率に満たない貧血製品
三損益分岐賃率以下の出血製品
に分けてみるのである。
そして、付加価値の絶対額とその伸び率、賃率とにらみ合わせて、捨ててゆく製品を考えるのである。とはいえ、この問題の考え方を間違うとたいへんである。
出血製品を切り捨てるだけでは、かえってマイナスになる。それに代わる製品とのかね合いで判定しなければならないのである。
基本的な考え方としては、「会社全体でどうなるか」ということである。
つまり、どのような収益の増減と費用の増減があるか、という「増分計算」をしなければわからないということである(くわしくは、拙著『あなたの会社は原価計算で損をする』参照されたし)。
つぎに部門別の生産性分析である。
〈表2〉がその一例である。これは絶対額でみるのではなくて、傾向でみるのが本当である。というのは、製品の生産性のよしあしは、受注価格できまってしまうのであって、部門の長の責任ではない。
それを、絶対額でみると、はじめから収益性のよい製品を割り当てられた部門は、成績がよいような評価を受け、割りの悪い製品を受け持っている部門は、いくら努力してもそれを認めてもらうことはできないであろう。
傾向評価とし、指数化してしまえば、合理化の結果をそのまま反映することになるから誤りない判定ができるのである。
この場合に、「前月比」というのはよくない。基準が毎月違うからである。必ず、ある時点を一〇〇とし、一期間はそれを基準とすべきである。
工程が横割りになっている場合は、製品の単位当り付加価値を、各部門の工数比(設備を加味してもよい)によって、その部門の単位当り付加価値を算出しておけばよい。
その割りふりには、あまり神経を使う必要はない。傾向評価をするかぎり、割りふりの誤りは消えてしまうからである。最後に間接部門の生産性の分析である。
これは〈表3〉のようなものをいう。
間接部門は、もともと付加価値獲得のための、現業部門へのサービスであるから、この算式が成立する。
会社の付加価値がふえないのに、間接部門の人員がふえれば、たちまちその部門の生産性が下がる仕組みになっているところに、注目していただきたい。
たとえどのような理由があろうと、この生産性が目だって下がるような増員は疑問であろう。部門生産性の測定は、なかなか重要な問題であり、そのうえ業績評価とも関連がある。そこで、第6章でもう一度この問題にふれることにする。
コメント