2025年– date –
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一念が時間を変え、寸心が世界を変える
時間の長さも、空間の広さも、すべては“心のあり方”次第である。気持ちにゆとりのある人にとっては、たった一日でも千年より遥かに長く、豊かに感じられる。また、心が広く開かれている人にとっては、たとえ一斗升ほどの狭い部屋でも、天地のように大きく... -
欲にも空にもとらわれず、ただ自然に生きよ
名誉や財産を競い合う人々がいても、それはそれ。任せておけばよい。かといって、それを見下したり、わざと嫌悪する必要はない。彼らの生き方に酔っているとしても、それを無理に否定するのは、結局同じ土俵に立つことになる。 また、自分が「淡々と生きて... -
立派さに酔わず、自然体で楽しめばよい
地位や財産は、空に浮かぶ雲のようなもの。つかの間であり、やがて消えゆく儚い存在にすぎない。それを悟り、「富貴などは浮雲のようなものだ」と受け止められれば、それで十分なのである。なのに、さらに自分の“立派さ”にこだわり、仙人のように山に籠っ... -
熱のあとに冷を知り、騒のあとに静の滋味を知る
夢中で駆け抜けた時間も、あとから振り返ってみれば、果たして本当に意味があったのかと疑問が湧く。熱に浮かされたように奔走した日々――それは実のない空回りだったと、冷静な今になってはじめて気づくものである。また、あくせくと煩雑な状況を抜け出し... -
やめたいと思ったそのときが、“やめどき”である
「もうやめたい」と思ったその瞬間こそが、最良のタイミング――その感覚を信じてすぐに行動すべきである。迷いながらも「いずれ良い時期が来たらやめよう」と考えていると、結局やめるきっかけを逃し、ずるずると続けることになる。たとえば、「息子に嫁を... -
「悟り」は枯れではない――空を装うことは空にあらず
灯は燃え尽き、衣は破れ、身も心も冷えきって――それで「悟り」と言えるだろうか。確かに簡素や静けさは尊い。しかし、それが行き過ぎると、ただの演出となり、空虚さを装った“もてあそび”にすぎなくなる。身体は枯れ木のように無反応、心は死んだ灰のよう... -
火花のような一生に、角の上で争う愚かさ
人生とは、石と石がぶつかって瞬間に飛び散る火花のように、あっという間に過ぎ去るもの。それほど短い一生であるにもかかわらず、人は「自分の方が少し勝っている」「相手の方が少し劣っている」と、わずかな差を競い合っては争っている。また、この世の... -
山河さえ崩れるなら、地位や財産は影のまた影
大地や山河といった雄大な自然でさえ、時がたてば微塵となり形を失う。その自然よりはるかに小さな人間など、まさに「塵中の塵(ちりの中のちり)」にすぎない。血と肉から成るこの身体でさえ、水の泡や物の影のようにはかなく消える存在なのに、ましてや... -
一を知って万に通ず――本質を見抜けば世界が手の中に入る
一つの物事の真の趣(おもむき)を深く理解すれば、その理解はやがて世界全体へと広がっていく。たとえば、ただ一つの風景を通して自然の美の本質を知るならば、遠く離れた五湖の霞む月影すら、心の中に自在に呼び寄せることができる。また、今目の前にあ... -
楽しみには“頃合い”がある――切り上げる勇気が余韻を生む
賑やかな宴も、時を見誤れば興ざめの場と化す。友や客が雲のように集まり、大いに飲んで騒ぐ――それは一見、人生の大きな楽しみのように思える。だが、夜が更け、酒が切れ、香も消え、茶も冷める頃には、場がだらけはじめ、わけのわからぬ人が泣き出したり...