2025年– date –
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勝つことより、負けたときの執念が国を傾ける
貞観十八年、太宗は高句麗の泉蓋蘇文が主君を殺し、民を苦しめていることに怒り、討伐を計画した。それに対し、諫議大夫の褚遂良は静かに、しかし深い憂慮を込めて進言した。 「陛下の英略は誰にも及びません。過去、隋末の群雄割拠を平定し、突厥や西域の... -
「武」とは、戦うことではなく、戦いを止めることにある
高句麗の泉蓋蘇文が自国の王を殺し、政権を奪ったという報告を受けたとき、太宗は怒りを覚えた。軍の力で討つことは可能だとしつつも、すぐには兵を動かさず、間接的な対応を検討した。 このとき、重臣・房玄齢はこう諫めた。「古より、強き国は弱き国を侵... -
剣より縁を選ぶことが、真の民のためになる
貞観十六年、太宗は北方の強国・薛延陀に対し、二つの選択肢を提示した。一つは十万の精兵をもって討伐し、武力で服従させること。もう一つは、皇女を嫁がせて通婚し、平和を築くこと。 太宗は語った。「民の父母たる者として、人民の安寧をもたらせるなら... -
礼を欠いた勝利に、正義は宿らない
貞観十四年、唐の将軍・侯君集は高昌国を討伐する任にあった。敵国の王・麴文泰の葬儀の日取りが知らされ、配下はその機に乗じて急襲すべきだと進言した。だが、侯君集はこれを拒んだ。 「天子が我々を遣わしたのは、傲慢な国を誅するため。その使命を受け... -
虚名のために、民を苦しめてはならない
貞観五年、中央アジアの康国が唐に属国となることを申し出た。だが太宗は、その申し出を毅然と断った。 「歴代の帝王たちは、土地を広げて名を残そうとしたが、それは民を苦しめるだけのことであった。仮に自分の利益になったとしても、人民に損があるのな... -
戦の勝利より、戦を避ける知恵を尊べ
貞観四年、林邑から無礼な文書が届いたとの報告を受け、官僚たちは討伐を願い出た。しかし太宗は、毅然としてこれを退けた。 「兵とは凶器、やむを得ない時にのみ用いるべきものである。光武帝は『一度兵を動かせば、気づかぬうちに白髪になる』と言った。... -
兵を動かす前に、言葉を尽くせ
嶺南で反乱の報が上がったとき、太宗は討伐の兵を起こそうとした。だが、魏徴は進言した。「戦乱で疲弊した今、険地に兵を送るのは得策ではありません。まずは使者を送り、誠意を示して話し合うべきです」と。 魏徴の言葉通り、太宗は一人の使者を遣わすに... -
強者の真の力は、恐れぬ姿勢にあらわれる
突厥の大軍が唐の都・長安の北に迫ったとき、太宗は城に籠ることなく、単騎で渭水を越えて敵将に向き合った。周囲が慎重策を提案する中、太宗はあえて出軍し、国を守る覚悟と気迫を示した。 敵は、太宗の即位直後の混乱を突いて攻めてきた。だが太宗は、堂... -
民を削って栄える国は、やがて骨まで尽きる
北周と北斉の最後の皇帝は、ともに国を滅ぼした。だがその末路の原因には違いがあった。唐の太宗は、北斉の後主が贅沢に溺れ、倉庫の財を使い果たし、過酷な課税で民を苦しめた様子を「自分の肉を喰らうが如し」と評した。やがて肉が尽きれば死ぬのは当然... -
勝ち続ける国ほど、滅びに近づく
勝ち戦に酔いしれると、君主は驕り、民は疲れる。それは、国の滅亡へと直結する危うい道である。 唐の太宗は、困窮した突厥の現状を聞き、「人民を顧みず、私欲に走り、忠義を重んじぬ者に国は保てぬ」と語った。魏徴は続けて、戦国の名将・李克の言葉を引...