2025年5月– date –
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忠義を疑う前に、善を愛する心を持て
貞観八年、桂州都督・李弘節が亡くなった後、その遺族が珠玉を売りに出したことが朝廷に伝わった。太宗はこれを聞き、朝臣たちに向かって、「李弘節は生前、清廉だとされていたが、遺族が財貨を持っていたとなれば、その清廉さを推挙した者にも責任がある... -
忠言は個人のために非ず、社稷(しゃしょく)のために尽くすもの
貞観六年、太宗は陳叔達に礼部尚書の官職を授けるにあたり、かつての忠言への感謝を述べた。「武徳年間、兄弟たちが私を排斥しようとしたとき、そなたは高祖に進言し、私の功績を認め、排除すべきではないと説いてくれた。私の性格が剛烈であることから、... -
忠義は時代を選ばず、志は滅びても名は朽ちず
貞観五年、太宗は側近たちに語った。「忠義の臣、節義の士は、いつの時代にもいるものだ。では、隋の時代には誰がいたか」――この問いに、王珪は三人の忠臣を挙げ、その行動を報告した。 まず一人目は、太常丞・元善達。混乱の続く隋末、都にいた彼は、各地... -
忠義は生者のためだけにあらず、死者を悼む礼にもあらわれる
貞観二年、玄武門の変で命を落とした太宗の兄・李建成(息隠王)と弟・李元吉(海陵王)の葬儀が行われることとなった。そのとき、かつて建成に仕えていた魏徴と王珪が、葬儀への参列を願い出た。 二人はかつて皇太子に忠誠を尽くし、朝廷に仕えていた旧臣... -
忠義とは、剣より鋭く、礼をもって貫く勇気である
貞観元年、太宗・李世民はある日の談話で、隋末の義士・姚思廉について語った。「白刃に臨んでも怯まず、忠節を示した彼の気骨は、古人にも劣らぬ」と感嘆した太宗は、遠く洛陽にいた思廉へ、絹三百疋を贈り、その忠義への敬意を伝えた。 その忠義のいきさ... -
敵であっても、忠義ある者は赦され、重んじられる
玄武門の変において、隠太子・李建成と斉王・李元吉に仕えていた馮立と謝叔方は、敵対する立場でありながらも、それぞれの主君への忠義を貫いた。唐太宗・李世民は、その忠義を正当に評価し、敵であったにもかかわらず彼らを赦し、重用した。 馮立は李建成... -
仁義は、政治と人生を支える精神の糧である
貞観十三年、太宗は側近に語った。「深い森に鳥が棲み、広い水には魚が泳ぐ――同じように、仁義が積み重ねられた世の中では、人々は自然とそこに集い、安らかに暮らすようになる」 人は災いを避けようと努めるが、本当に災いを遠ざける手段は、仁義を行うこ... -
真の武器は、兵ではなく仁義である
貞観四年、重臣・房玄齢が太宗に武器庫の充実を報告した。「今、我が国の兵器は隋の時代よりもはるかに整っております」と。 それに対し太宗はこう返した。「確かに武器を整え、敵に備えるのは重要である。しかし、私が本当に頼みにしているのは、お前たち... -
世の風は民の心、政治の映し鏡である
貞観二年、太宗は側近にこう語った。乱世を経た人民の風俗は改まりにくいと考えていたが、近頃の様子を見ると、人々は貪欲を控え、恥を知り、法を守り、盗賊も減っている――これは、政治の力によって人心が変わった証である、と。 太宗は、「民の風俗は常に... -
幸運に頼るな、人材登用こそ国の礎
貞観元年、唐の太宗は「仁義による統治」を目指すと語った。歴代の帝王を見ても、徳をもって治めた者は国を長く保ち、法のみをもって制した者は一時的には効果を上げても、やがて滅びたという。太宗は、自らも道徳と真心によって人々の風俗を正したいと強...