2025年5月– date –
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仁ある場所に住まうこと、それが知の証
環境は人をつくる。仁徳に満ちた地に身を置こう 孔子は、知恵ある者ほど、どこに身を置くかを慎重に選ぶべきだと説いた。 ただ言葉や思想で仁を語るだけではなく、日常をともにする人々の徳を重んじ、仁のあふれる場所で暮らすべきだという。 もし仁徳に満... -
地位が高くても、心が伴わなければ見る価値はない
孔子は、人の上に立つ者にこそ、人としてのまごころや誠実さが求められると説いた。 もし上に立つ者が寛容でなく、礼を行っても敬意が見えず、人の死に際しても哀悼の心を持たないなら――そんな人物に対しては、何を見てその人となりを判断すればいいのか、... -
音の美しさに、徳の善さが加わってこそ完全である
孔子は、音楽を単なる美の表現としてではなく、人を教化する力をもった道徳的芸術と考えていた。 古代の聖王・舜(しゅん)の音楽「韶(しょう)」については、「音律の美しさに加え、道徳的にも完全である」と称賛した。一方で、周の武王(ぶおう)の音楽... -
不遇とは、天が託した役割のあらわれかもしれない
孔子が儀(ぎ)の国境を通過する際、そこの役人が「君子がこの地を通るとき、必ず拝見している」として、孔子との面会を求めた。 面会ののち、役人は弟子たちに向かって語った。「皆さんは先生が世に受け入れられていないことを嘆いているようだが、心配に... -
音楽は、心と社会の調和を映す鏡である
孔子は、音楽をただの娯楽ではなく、人間の心の在り方や社会の理想を映し出すものと見ていた。魯(ろ)の宮廷音楽長官に向かって語ったのは、音楽の構造と、その精神性である。 まず演奏の始まりには「翕如(きゅうじょ)」――全ての音がひとつに揃って生ま... -
偉業を成しても、品格の大きさは別の話である
孔子は、斉(せい)の名宰相・管仲(かんちゅう)について「器が小さい」と評した。 弟子がそれを聞いて、「倹約すぎたのですか」とたずねたが、孔子は「いや、三つも邸宅を持ち、使用人も別々に抱えていた。とても倹約家とは言えない」と否定した。 「で... -
権力に迎合して軽口を叩くな ― 口は災いのもとである
魯の君主・哀公が、土地神を祀る「社(しゃ)」の神木について宰我(さいが)に尋ねたとき、宰我は歴代王朝が用いた樹木の種類を語った。 そして、周が「栗(くり)」を植えたのは「民を戦栗(せんりつ)させるためだ」と、冗談めいた含みで話した。これを... -
喜びも悲しみも、節度があってこそ美しい
孔子がもっとも重んじた詩の一つ、『詩経』の冒頭にある「関雎(かんしょ)」は、夫婦の和を歌った詩である。この詩には、楽しむときも節度を持ち、悲しむときも心を失わない――中庸の心が美しく描かれている。 孔子はそれを称賛し、「淫せず、傷(やぶ)ら... -
礼と忠が揃ってこそ、信頼ある関係が築かれる
主君と臣下の関係は、力や立場の上下ではなく、互いの誠実さと節度に支えられて成り立つ。 魯の定公が「君主と臣下がよい関係を築くにはどうすればよいか」と尋ねたとき、孔子は次のように答えた。 「君主は礼をもって臣下を遇すること。臣下は忠を尽くし... -
正しくあるなら、人の非難に惑わされるな
礼を尽くして主君に仕えることは、君子として当然のふるまいである。 しかし、世間の目は時にゆがみ、誠実な行いですら「へつらい」や「おべっか」と受け取られることがある。 孔子はこうした中傷を受けながらも、「自分が正しいと信じることを、誇りを持...