2025年5月– date –
-
真の感情を尽くせるのは、ごく限られたとき――親を失ったとき
曾子は、孔子から聞いた言葉を引きながら、人の感情の深さについて語った。人が自分の内にある真実の感情――「真情」や「誠意」を完全に表すことは、めったにない。それができるとすれば、最も深い情の対象である「親」を喪ったときなのではないか、と。 普... -
見た目は立派でも、内面が伴わなければ共には歩めない
曾子は、子張の外見的な立派さを一応は認めながらも、「ともに仁をめざす仲間にはなりにくい」と評した。その理由は、子張が外面を飾り、威圧的であったり、内面の誠実さに欠けていたからである。 「堂々たる姿」だけでは仁は育たない。仁をともに学び、実... -
才能があっても、誠と情がなければ仁には至らない
子游は、自身の友人である子張について語った。彼は「人にはなかなかできないようなことを成し遂げる能力の持ち主である」と認めつつも、「まだ仁の道には達していない」と断じた。 ここで言う「未仁」とは、誠意や人への情(人情・思いやり)に欠けている... -
喪には形式よりも、心からの哀しみを尽くすことがすべて
子游は、**人の死に際しての態度――「喪」**における本質を、端的に説いた。喪に服すときには、形式や儀礼の整いよりも、深い哀しみの誠を尽くすことが第一である。その他のもの、つまり飾りや制度、見た目の整いは、二の次でよいのだ。 大切なのは、亡き人... -
実務と学びは車の両輪。余力あるときに互いを磨け
子夏は、「仕えること(=実務)」と「学ぶこと(=知識や教養の習得)」のバランスについて語った。仕事に励み、十分に責務を果たせるようになったら、余力をもって学ぶべきであり、学問に精進し、力がついたならば、社会のために働くべきであると。 これ... -
人には人の道の歩み方がある。君子の教えは一様ではない
子游は、子夏の門人たちを見て批判した。「彼らは掃除や接客の作法などの小さな事柄にはよく通じているが、本来学ぶべき道徳の根本が欠けているように見える。どういうことか?」と。 それに対して子夏は後にこう応じた。「游よ、それは違う。君子の道には... -
礼儀の形より、心の根本を忘れない
子夏は、人の行いにおける**「大小の徳」の優先順位**について語った。根本となる大きな徳――誠実さや正義感、他者への敬意など――を踏み外さなければ、細かな礼儀作法や形式に多少の出入り(乱れ)があっても、大きな問題にはならない、というのである。 服... -
信なくして、導きも忠告も届かない
子夏は、信頼の重要性について語った。君子は、まず人々からの信頼を得てから、その人々を働かせる。信頼がないままに命じれば、人々はそれを自分たちを苦しめる行為だと受け取ってしまう。 同じように、君主や目上の人に対しても、信頼関係を築いた上で諫... -
君子は威厳・親しみ・厳正の三つを兼ね備える
子夏は、君子の持つ多面的な魅力と品格を、三つの「変化(へんげ)」として説いた。君子は、見る距離や接し方によって、相手に異なる印象を与える。 遠くから望めば、儼然(げんぜん)として威厳がある。 近くに接すれば、温(おん)かで親しみがある。 そ... -
君子は過ちを飾らず、小人は過ちを取り繕う
子夏は、過ちに対する姿勢の違いについて語った。小人(しょうじん)――すなわち器の小さな人物は、過ちを犯すと、必ず言い訳をしようとする。自分の非を素直に認めず、外的要因を挙げたり、見かけを取り繕ったりして、責任を回避しようとする。 それに対し...